インスブリアの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/01 04:05 UTC 版)
紀元前203年、両軍は行動を開始した。プロコンスルのケテグスとプラエトルのウァルスはマゴに対抗するために4個軍団を率いてインスブリア族の土地(現在のミラノから遠くない場所)に入った。リウィウスの『ローマ史』によると、両軍とも2段構えの戦列を敷いた。ローマ軍は2個軍団を前方に、残り2個軍団と騎兵を後方に配置した。マゴは、裏切りの可能性を考慮してガリア兵を後方に配置し、また数頭の戦象も後方に置いた。現代の研究では、マゴの兵力は30,000以上であったと推測されている。 戦闘が開始されると、カルタゴ軍の前方戦列は健闘したが、後方のガリア兵は信頼できないことが判明した。ローマ軍はカルタゴ軍戦列を突破しようとしたが、失敗し逆に押し返された。そこで、ウァルスは騎兵(3,000ないし4,000)をカルタゴ軍戦列に突撃させ、混乱させようとした。しかしながら、マゴはこれを予測しており、戦象を前進させた。このためローマ騎兵の馬は恐怖に襲われ、散り散りになってしまった。これをヌミディアの軽騎兵が追撃した。続いて戦象はローマ歩兵に向かい、重大な損害を与えた。しかし、ケデグスが後方のローマ軍団を投入すると、カルタゴ軍の形勢は不利となった。戦象は投槍で攻撃され、多くは死にまた残りはカルタゴ軍に突っ込んだ。マゴはガリア兵にローマ軍の反撃を止めるように命じたが、失敗した。 リウィウスによると、カルタゴ軍は5,000を失って撤退した。加えて、マゴの大腿に槍が刺さり、瀕死の重傷を負った。他方、ローマ軍の損害も少なくなく、完勝というわけでもなかった。前方の2個軍団は2,300を失い、また後方の部隊も損害を受けた。この中には3人のトリブヌス(上級指揮官)が含まれる。騎兵の多くも戦死し、多くのエクィテス(騎士階級)が、戦象に踏み潰された。その夜、マゴは敗北を認め、ローマ軍を戦場に残してリグリアの海岸まで撤退した。
※この「インスブリアの戦い」の解説は、「ポー平原遠征」の解説の一部です。
「インスブリアの戦い」を含む「ポー平原遠征」の記事については、「ポー平原遠征」の概要を参照ください。
- インスブリアの戦いのページへのリンク