イマーム・サーディクの役割とその時代
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「十二イマーム派」の記事における「イマーム・サーディクの役割とその時代」の解説
イマーム・サーディクの時代は、さらにウマイヤ朝支配の弱体化と滅亡、アッバース朝支配の移行と重なり、イスラーム学の布教の必要性が高まった。イマーム・サーディクによる講義には4千人以上もの学識者が集まり、その中にはスンナ派の諸法学派の開祖たちもいた。当時有名であった唯物論者との討論においてイマームはイスラームの諸信条を守り、理性論と論証学を残した。とりわけ「モファッザルの唯一性論」は彼の優れた業績のひとつである。これは神学の分野で、彼が教友の一人モファッザルに教えたものである。このイマームからは数万ものハディースが様々な分野において残されており、教友の一人アブー・サイード・アバーンだけでも3千ものハディースをイマームから伝えている。イマーム・ジャアファル・サーディクの教えがもたらした影響は十二イマーム・シーアがジャアファリー・シーアとも呼ばれるほどであった。シーアの知識(マアーレフ)の多くが彼によっているからである。 アッバース朝の登場で、再び極めて厳しい閉塞状態となった。アッバース朝第二代カリフ・マンスールの時代、アリーの後裔たちは数多くの拷問や苦難を受けた。イマーム・サーディクはこの期間、闘争を信仰隠し(タギーイェ)とともに継続した。にも関わらず、アッバース家のカリフはイマームの意図を知っていたために、彼を数回にわたり追放して脅し、最終的には殉教させた。
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