イソ-マールボロ・IR、FWそして最初のウィリアムズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/14 07:02 UTC 版)
「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」の記事における「イソ-マールボロ・IR、FWそして最初のウィリアムズ」の解説
イソ-マールボロ・IRは1973年スペイングランプリで導入され、シーズンの終わりまでに8人のドライバーがドライブした。ガンレイは唯一のレギュラードライバーで、シーズン終盤のカナダグランプリで6位に入賞、ポイントを獲得した。その他のドライバーはギャリ、ペスカロロ、トム・ベルソ、グラハム・マクレー、ジィズ・ヴァン・レネップ、ティム・シェンケン、ジャッキー・イクスであった。ヴァン・レネップのみがホームレースのオランダグランプリで6位入賞、ポイントを獲得した。 2台のIRは維持され、その後フランク・ウィリアムズの頭文字を取ってFWと改名されたが、当初はガンレイに代わって加入したナンバーワンドライバーのアルトゥーロ・メルツァリオ用の1台しかエントリーされなかった。第3戦の南アフリカではメルツァリオが6位に入賞してポイントを獲得したが、もう1台はペイドライバーのトム・ベルソが起用されリタイアに終わっている。この後ジィズ・ヴァン・レネップとジャン=ピエール・ジャブイーユもFWをドライブしたが、3戦連続で予選落ちした後ジャック・ラフィットがメルツァリオのパートナーとして起用され、パフォーマンスは徐々に改善されていった。第13戦イタリアでメルツァリオは4位に入ったが、これがシーズンでの最高位であった。チームは合計で4ポイント獲得し、コンストラクターズランキングは10位となった。結局このシーズンは3台のFWが使用され、その中には新造のシャシーも含まれたが、これらは1975年にウィリアムズ・FW01、FW02、FW03と改名された。3台は本質的に同一の車であったが、それぞれ別の名称が付けられた。 イソとマールボロはともに1975年シーズン前にメインスポンサーを取りやめ、ウィリアムズは財政的な問題を残していた。メルツァリオとラフィットは1975年シーズンもチームに残留し、引き続いてFW02とFW03をドライブした。新型のウィリアムズ・FW04が製作され、1975年スペイングランプリでFW02に代わって投入された。またドライバーもラフィットに代えてイギリスの新星トニー・ブライズが起用され、ポイント外ではあるが7位で完走した。このときまでにチームの財政状況は深刻となり、メルツァリオはベルギーグランプリの後チームを離れた。彼に代わって6名のペイドライバー、イアン・シェクター、フランソワ・ミゴール、イアン・アシュレイ、ヨー・フォンランテン、レンツォ・ゾルジ、レラ・ロンバルディが起用された。スウェーデングランプリではラフィットに代えてダミアン・マギーが起用された。 第11戦ドイツグランプリでは他チームの脱落と、ドライバーの粘り強い運転が折り重なって、ラフィットはブラバムのカルロス・ロイテマンに次いで2位に入賞した。この結果チームには必要な財政援助がもたらされた。これはチームにとってシーズン唯一のポイントであったが、コンストラクターズランキングは9位となって前年より改善された。
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