アントニヌス帝の死
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「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事における「アントニヌス帝の死」の解説
153年、ルキウス・ウェルスがアントニヌスから財務官へ指名を受け、続いて2年後の155年に執政官へ叙任された。 アウレリウスは財務官と執政官の両職を既に終えていたので、一連の出来事は遅ればせながら後継者候補が等しい立場になった事を意味した。それまでルキウスは皇子を除く称号を与えられていなかった。これはアントニヌスが親族を優先しただけでなく、ルキウスに皇帝の資質が伴っていないという周囲の批判によるものであった。個人的にもアントニヌスはルキウスを嫌い、皇族の一員として残す事はともかくそれ以上の権威は極力与えたがらなかった。160年までルキウス・ウェルスを象った通貨は発行されていない。 155年、70歳を迎えていたアントニヌスは目に見えて衰弱しており、まともに立つことも困難になりつつあった。老いた皇帝は早朝の会議で眠らないように乾いたパンを口の中で噛み続ける習慣を行ったとも言われる。アウレリウスは叔父の補佐官として行動する機会が増え、皇帝の政務を一部代行するようになった。アウレリウスとルキウスが執政官と共同執政官に叙任された160年には既に不治の病を抱えていた。 ある日、アルプス産のチーズを食べたアントニヌスはその夜に嘔吐と発熱を起こした。161年3月7日、アントニヌスは病を押して議会を開くと、自らの寝室に置かれていたフォルトゥナ神の銅像を「アウレリウスの寝室に移せ」と命じた。言い終えるとアントニヌスはそのまま仰向けに倒れて息を引き取った。
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