アカデミー発足
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「王立絵画彫刻アカデミー」の記事における「アカデミー発足」の解説
こうした芸術家間の対立を背景として、王立絵画彫刻アカデミーの設立が動き始める。この動きを主導したのは、ニコラ・プッサンとともにローマへ赴いていた画家シャルル・ル・ブランである。ル・ブランは美術愛好家だった国務評定官マルタン・ド・シャルモア (Martin de Charmois) の助力を得て、ローマの聖ルカ・アカデミーに肩を並べる団体をフランスに設立したい旨を表明する。 シャルモアが作成した嘆願書は1648年2月に勅許状を受けて、アカデミーが発足した。これに先だって、フランス語の研究や辞書の制作・文法規則の立案を行う「アカデミー・フランセーズ」が設立されているほか(1635年)、ルイ14世の親政が始まったのち「舞踏アカデミー」(1661年)、「碑文・文芸アカデミー」「科学アカデミー」(1663年)、「王立音楽アカデミー」(1669年)、「王立建築アカデミー」(1671年)と設立が続いた。 新しく発足した絵画彫刻アカデミーは、会長に大法官セギエを、院長にシャルモアを戴き、主要幹部としてル・ブランを含め12名の芸術家が参加した。幹部の内訳は、彫刻家が3人、肖像画家が2人、残る7人が歴史画家だった。発足当初の会員は26名、発足翌月の3月にはル・ナン兄弟など6名が会員に加わっている。
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