その繁栄と末路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 07:52 UTC 版)
だが、崔立は人格的に大欠陥があり、傲慢で人に媚びられるのが大好きな低俗物な人物だったようである。そして彼は金の名士であった元好問と学者でもあった劉祁らを左右員外郎に任じて、自分の功績を称える「功徳碑」を作成するように命じたという。また彼は自分の政策を猛反対する大臣を投獄して処刑したという。翌年に突然、彼は豹変してモンゴルのスブタイらに降伏を請い、宣宗未亡人の李氏・哀宗皇后の徒単氏・梁王従恪・荊王盤都(守純、宣宗の子で従恪の従子)らをモンゴルの軍営に護送して引き渡した(男子は全て処刑され、女性は奴隷になったという)。1234年夏6月、南宋の名将の孟珙が開封に攻めて来ると、崔立は自分に怨みを持っている武将の李伯淵らに殺害されたのである。直後に、李伯淵らは崔立の首級を持参してそのまま孟珙に降服した(その半年前には哀宗は淮西の蔡州城で自決したために金は滅亡していた)。
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