『欝陵島図形』の于山島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 07:33 UTC 版)
1711年に鬱陵島へ渡った検察使の朴昌錫が、于山島が描かれている『欝陵島図形』(ソウル大学 奎章閣蔵)を製作している。于山島を描いた古地図は多数発見されており、どの地図にも于山島は鬱陵島の近傍に描かれているが、この地図に書かれた于山島は鬱陵島の東近傍に附属島のように描かれ、その中央には「海長竹田 所謂于山島」と記されている。海長竹は竹の種類で、田のように広く自生していることを示していると考えられている。鬱陵島の東近傍には、実際に「竹嶼」という古地図と同様南北に長い小島があって、多くの竹が自生しているため、この頃からこの島を于山島と呼んでいたと考えられる。 朝鮮王朝が鬱陵島を調査した1694年作成の記録『蔚陵島事蹟』には「東方五里に一つの小島があり、高くはないが大きい海長竹が一面に生えている」とした記述がある。東方五里(約2km)としていることから、この小島は鬱陵島から東に2.2km離れた竹嶼であることが窺え、『欝陵島図形』の記述と共に于山島が竹嶼であることを裏付けている。 この他にも『欝陵島図形』という地図が別に二枚確認されており、1699年製作といわれるもの(韓国国立中央博物館蔵)と、1701年製作といわれるもの(三陟市立博物館蔵)には、「大于島」「小于島」という島が描かれている。これらの地図には鬱陵島の北海岸から北東にかけて、孔巖、錐峰、蟻竹岩、など、今日の象岩、錐山、竹岩と比定される鬱陵島沿岸の岩を書いており、更に東北部から東にかけた海岸沿に「芋田」や「倭船倉」(日本の船倉)の文字が記載され、安龍福がこの辺りで日本人に遭遇していたことがうかがえる。そのすぐ対岸に「大于島」と「小于島」が描かれ、これらの相対的な位置関係からそれぞれ現在の竹嶼と観音島とみられる。
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