『地蔵寺開闢伝』
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『地蔵寺開闢伝』は1803年(享和3年)4月24日に書かれた岩手県八幡平市沢口の曹洞宗寺院である地蔵寺の縁起であり、当時の住職である見桃侍鉄和尚によって書かれたものである。地蔵寺はだんぶり長者の屋敷跡に近く、当時の民衆に伝わる伝説も記録されていて、上記の現代の伝説の幾つかが記録されている。送られた物は伊達郡の人からは黄金のふきしめ百鎰、比内郡の人たちからは孔雀石、階上郡の人たちからは水漆万杯、津軽郡の人たちからは合浦の珠、名久井の里からは摺墨の名馬と言って角が一本生えている名馬に加えて、樺太からは韃靼の錦が送られて来たと書いている。米の研ぎ汁で川下が白く濁り、それが米代川の名の元になったことも書いている。4人の優れた能力を持つ召使いの話も書かれているが「天狗」とは記載されていない。 見桃侍鉄和尚は長者屋敷跡を訪ねて「これを見るに誠に思いがけず荒れ果てた有様だ。樹木も無く川岸が崩落して泉の跡すら見分けられない。地形もはなはだ狭く、豪邸があった故地とも思えない。寂寥な沢辺だけである」とし、だんぶり長者は山野を開拓したために長者と呼ばれたのではないかとし、娘の入内によって長者号を得たことも荒唐無稽だとして一蹴している。 この本の翻刻をした阿部幹男は、『だんぶり長者』はおそらく『法妙童子』や『まつら長者』(『竹生島之本地』)などの影響を受けて成立したものと考えらるとし、たとえば室町時代の小説集である『法妙童子』の冒頭部には「…ここに長者一人おはします、名をばたんひり長者と申ける」とあり「だんぶり長者」はこの長者名を引用したものと考えられるとしている。
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