『信府統記』による八面大王
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「魏石鬼八面大王」の記事における「『信府統記』による八面大王」の解説
一方、松本藩により享保年間に編纂された地誌、『信府統記』(第十七)に記される伝承の概略は次のようなものである。 その昔、中房山という所に魏石鬼という名の鬼賊が居た。八面大王を称し、神社仏閣を破壊し民家を焼き人々を悩ましていた。延暦24年(805年)、討伐を命ぜられた田村将軍は安曇郡矢原庄に下り、泉小太郎ゆかりの川合に軍勢を揃え、翌大同元年(806年)に賊をうち破った。 穂高神社の縁起では、光仁天皇のころ義死鬼という東夷が暴威を振るい、のち桓武天皇の命により田村利仁がこれを討ったという。 また、八面大王に関連した地名や遺跡に関する以下のような記述もある。 中房山の北、有明山の麓の宮城には「魏石鬼ヶ窟」がある。 討伐軍が山に分け入る際に馬を繋いだのが今の「駒沢」で、討ち取った夷賊らの耳を埋めたのが「耳塚」、賊に加わっていた野狐が討ち取られた場所が「狐島」であるという。 八面大王の社と称する祠もあるという。一説には、魏石鬼の首を埋めたのが「塚魔」であり、その上に権現を勧請したのが今の筑摩八幡宮(つかまはちまんぐう)とされる。 魏石鬼の剣は戸放権現に納められたというが、この社の所在は不明である。剣の折れ端は栗尾山満願寺にあり、石のような素材で鎬(しのぎ)があり、両刃の剣に見える。 この件に関する『信府統記』の記述はすこぶる表面的であり、上記のように歴史上の人物である坂上田村麻呂と藤原利仁の混同をはじめとする田村語りの影響など、おとぎ話的な側面を多く含むことは否めない。決定的なことは、坂上田村麻呂は、延暦20年(801年)の遠征以降、征夷の史実はないという点である。加えて、文中のコメントは伝聞調で「云々(うんぬん)」、「とかや」が散見しているため、史実としての信頼性を疑わせる。
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