『信府統記』による八面大王とは? わかりやすく解説

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『信府統記』による八面大王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 06:52 UTC 版)

魏石鬼八面大王」の記事における「『信府統記』による八面大王」の解説

一方松本藩により享保年間編纂された地誌、『信府統記』(第十七)に記される伝承概略次のようなものであるその昔、中房山という所に魏石鬼という名の鬼賊居た八面大王称し神社仏閣破壊し民家焼き人々悩ましていた。延暦24年805年)、討伐を命ぜられた田村将軍は安曇郡矢原庄に下り、泉小太郎ゆかりの川合軍勢揃え、翌大同元年806年)に賊をうち破った穂高神社縁起では、光仁天皇のころ義死鬼という東夷暴威振るい、のち桓武天皇の命により田村利仁がこれを討ったという。 また、八面大王関連した地名遺跡に関する以下のような記述もある。 中房山の北、有明山の麓の宮城には「魏石鬼ヶ窟」がある。 討伐軍が山に分け入る際に馬を繋いだのが今の「駒沢」で、討ち取った夷賊らの耳を埋めたのが「耳塚」、賊に加わっていた野狐討ち取られた場所が「狐島」であるという。 八面大王の社と称する祠もあるという。一説には、魏石鬼の首埋めたのが「塚魔」であり、その上に権現勧請したのが今の筑摩八幡宮(つかまはちまんぐうとされる。 魏石鬼の剣は戸放権現納められたというが、この社の所在不明である。剣の折れ端は栗尾山満願寺にあり、石のような素材で鎬(しのぎ)があり、両刃の剣見える。 この件に関する信府統記』の記述すこぶる表面的であり、上記のように歴史上の人物である坂上田村麻呂藤原利仁混同はじめとする田村語り影響などおとぎ話的な側面多く含むことは否めない決定的なことは、坂上田村麻呂は、延暦20年801年)の遠征以降征夷史実はないという点である。加えて文中コメント伝聞調で「云々うんぬん)」、「とかや」が散見しているため、史実としての信頼性疑わせる

※この「『信府統記』による八面大王」の解説は、「魏石鬼八面大王」の解説の一部です。
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