『会津干城伝』一宮 左太夫信嗣
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「長野無楽斎槿露」の記事における「『会津干城伝』一宮 左太夫信嗣」の解説
一ノ宮後の左太夫信嗣は土津神君の臣、居合の達人なり、一ノ宮流と云ふ、 其先、林崎甚助重信と云者此術に心ざし、奥羽林ノ明神に参籠すること一百日、終らんとする夕べ夢に神告て曰く、此術を汝に授く、常に守持せば讎敵に勝事を得べしと云終て夢覚めぬ。 重信恭敬存守して是を田宮平兵衛照常に伝ふ(田宮照常は紀州の家士にして千五百石を領す)、長野無楽斎槿露に伝ふ(無楽斎は彦根侍従直政に仕ふ、其子孫長野十右衛門とて代々執権たり)、 田宮長野の教、已に両家となり門弟離散して諸国に分処す、其能くする所を以て是を改め一家をなす、弟子に授くるに源遠くして末益々分れ、其要旨を得る者少し、 唯一ノ宮左太夫照信是を無楽斎に受けて其の真を失はず、無楽印可して吾後、天下第一の師道たるべしと。 照信朝に磨き夕べに研ぎ、夜を以て日に継ぎ曽て懈らず、故に其術尤も精密なり、照信是を戸沢越中守忠照に伝ふ、(忠照は鳥居彦右衛門尉元忠公の二男にして忠政公の弟なり)、忠照、是を一ノ宮左太夫信嗣に伝ふ。 信嗣は照信の二男なり、信嗣心を潜め慮を尽して是を練習す、唯居合のみにあらず剣術も亦達人なり、神明の教ふる処の妙術斯の流に伝へたり、左太夫色々仕合したる咄あれども詳ならざれば此を略す。 一宮左太夫照信は始め武田大膳太夫晴信公子息四郎勝頼に仕へて軍功あり、勝頼公上州せんの城責めの時、城の一番乗し、一番に鎗を合せ高名す、武田家滅亡の後、鳥居彦右衛門元忠公に仕ふ、慶長五年石田乱の時、元忠公と共に伏見城に於て討死す。
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