「浮世油画」蕾斎
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明治21年(1888年)刊行の『大阪市中近傍案内』の末尾近くに掲載された「所詮成人名」の「油畫家」の欄には、「加島信成、鈴木蕾斎、石川蕉蔭、正林謙齋、餘ハ略ス」とあり、年基は蕾斎の号で油絵にも手を染めていた。明治20年代に出版された書画番付では、頻繁に蕾斎の名が見える。明治29年出版の『大日本繪畫著名大見立』では東張出として、「浮世油畫 京寺町錦上 野村芳國」、「同 大阪平野町堺筋四 鈴木雷齋」とある。「浮世油画」という言葉は今日では聞きなれぬ表現であるが、先述された野村芳国(二代目)は浮世絵に学びつつ銅版絵本にも手を染めたことから、浮世絵師であって油画もこなす両者を「浮世油画」と表現したと想定される。しかし、蕾斎がどこで油画を学んだかは全く不明で、同時代の史料もあまり残っておらず、現存を確認されている作品も3点ほどしか確認されていない。 むしろ、明治20年代以降の蕾斎は引き札や、名所絵にその名を留める。明治31年刊の「東京名勝十二景」は、大幅に絵を入れ替えたり、門人に林基春がおり、その林基春や基春の門人広瀬春孝によって、同じ体裁の名所絵が大量に制作された。引き札はポンチ絵風の物が多い。
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