「沖縄もう一つの選択」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 07:25 UTC 版)
かねてから、沖縄基地問題に対する社民党(特に沖縄県本部)の硬直した対応を疑問視していた上原は、1998年5月、政策研究会「未来21・沖縄」を結成し、日米安保体制がアジア地域における安全保障の公共財産となっていると認めた上で、基地問題解決を図るべきであるとする「沖縄もう一つの選択」アピールを発表した。基地の半分撤去を目指す「ハーフオプション」などを含むこの構想は、全基地撤去が建前だった大田昌秀知事ら革新勢力と確執を生み、「裏切り者」との批判は政界引退後もつきまとうことになった。 なおこうした中で、保守陣営から大田昌秀の対抗馬として県知事選に擁立する動きもあったが実現せず、同年6月19日には社民党を離党し除名処分を受け、民主党入りし翌1999年9月民主党代表選挙では新政局懇談会会長横路孝弘推薦人名簿に名を連ねた。 2000年の第42回衆議院議員総選挙では沖縄3区で東門美津子に敗れ、比例復活もならず落選。この選挙を最後に政界を引退した。2002年勲一等旭日大綬章受章。 2017年8月6日、呼吸不全のため、沖縄市内の病院で死去。84歳没。 政府は、没後、従三位を追贈することを閣議決定する。
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