「伊達の三連投」
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1931年、先述のように小川が病気のため戦線離脱、早慶戦を前に早大投手陣は火の車になっていた。前年は春秋通じて慶大に1勝もできず、伊達にかかる期待は大きくなっていた。伊達も前年秋の汚名を雪ぐ絶好の機会と考えていた。6月13日の1回戦、1回に2死1、3塁から名手三原脩が味方野手と衝突してまさかの落球をおかし2点を失った。その後伊達は慶大打線を1安打に抑えたものの打線が水原の前に沈黙、1-2で敗れた。 続く2回戦、2-2と同点にされた直後の7回に三原が一世一代のホームスチールを敢行して勝ち越す。勢いづいた早大はその後も加点し、伊達が慶大の反撃を9回の1点に抑えて連日の完投で1勝1敗のタイとした。早大6-3慶大。 6月15日に行われた3回戦、月曜日にもかかわらず神宮球場は超満員となった。先発投手は慶大水原、早大伊達。0-0で迎えた4回に早大は打線が爆発し4点を挙げた。伊達は慶大の反撃を食い止め、5-4で勝利した。 エースの連投・完投が当たり前だった当時の六大学においても、3日連続完投して勝ち越した例はなかった(明大湯浅禎夫が3連投したことがあるが1勝2敗だった)。加えて早慶戦は中等野球の有名選手が多く集い伝統の試合として今以上の注目を集めていた。そこでの快挙として伊達の三連投は絶賛されることとなった。 なお、この年慶大の「若き血」に対抗して早大は応援歌「紺碧の空」を発表、攻撃時守備時と流れるこの応援歌に伊達は大いに励まされたという。
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