「休眠」後の状況
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「社会政策学会 (日本 1897年)」の記事における「「休眠」後の状況」の解説
学会に参加していた学者・研究者のうち、「左派」とされる高野岩三郎・森戸辰男・大内兵衛らの大原社研グループは、同研究所長に就任した高野を中心に、社会調査や理論研究に大きな成果を上げた。これに対し桑田熊蔵ら協調会に結集した旧世代・右派の人々は、同会の機関誌『社会政策時報』の編集にあたった。協調会は調査研究に加え、政府の諮問に応え政策提言を行うことを主要な活動とし、発足当初には(実現しなかったものの)労働組合法制定に大きな力を注いでいたため、社会政策学会の一側面を継承したものとみることができる。河上肇・福田徳三はそれぞれ独自の立場を貫いた。戦時期には『社会政策時報』に論文を執筆していた大河内一男・風早八十二・服部英太郎らを中心に、戦時動員体制のもとでの社会変革をめざす生産力理論が提唱された。 戦後、大河内や岸本英太郎らによって再建され、現在も活動を続けている社会政策学会は、大内ら旧学会参加者の承認により戦前以来の名称と財政を継承しているが、多様な社会・政治活動を展開した戦前の学会とは異なり、純然たる学術団体となっている。
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