鶴瓶上岡パペポTV 鶴瓶上岡パペポTVの概要

鶴瓶上岡パペポTV

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/19 10:07 UTC 版)

鶴瓶・上岡パペポTV
TSURUBE KAMIOKA PA-PE-PO TELEVISION
讀賣テレビ放送本社(2006年3月撮影)
1988年7月から番組終了までこの2代目社屋内のスタジオで収録が行われていた。
ジャンル トーク番組
出演者 笑福亭鶴瓶上岡龍太郎
オープニング テーマ曲とセットを参照
製作
プロデューサー 主なスタッフを参照
制作 読売テレビ
放送
放送国・地域 日本
放送期間1987年4月15日 - 1998年4月1日
放送時間放送状況を参照
放送分55分
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LIVE PAPEPO 鶴+龍
ジャンル トーク番組
出演者 笑福亭鶴瓶上岡龍太郎
製作
プロデューサー 荻原武博、佐藤恭仁子 /
松下泰紀、松本芳久
(共にCP)
制作 読売テレビ
放送
放送国・地域 日本
放送期間1998年7月8日 - 2000年3月26日
放送時間水曜日未明 0:50 - 1:20(火曜日深夜)
日曜日未明 0:55 - 1:25(土曜日深夜)
放送分30分
テンプレートを表示

本項目では後継番組として1998年7月8日未明から2000年3月26日未明まで放送されていた『LIVE PAPEPO 鶴+龍』(ライブパペポ つるとりゅう)についても記述する。

概要

笑福亭鶴瓶上岡龍太郎の2人が、台本・打ち合わせ無しで60分間トークを行う[1]。トーク内容は放送当時の時事問題から2人の身近な話題に至るまで様々であった。当初は関西ローカルの深夜番組であったが、その人気から日本テレビをはじめ各局でネットされ、大規模会場での番組イベントも多数行われた。本番組で上岡の知名度は大きく上がり、自身が東京進出するきっかけにもなった。

1998年3月で番組は一旦終了するが、その後収録体制を一新して同年7月から『LIVE PAPEPO 鶴+龍』とリニューアルして復活し、上岡が芸能界を引退する2000年3月まで番組は続けられた。

1988年2月4日2月3日深夜)放送回は、第25回ギャラクシー賞・選奨を受賞している[2]

収録形式

番組は公開収録形式を取っており、第1回 - 第65回放送分(1988年7月9日)までは東天満の讀賣テレビ初代社屋で行われ、2代目社屋移転後の第66回放送分(1988年7月16日)からは主に讀賣テレビ本社第2スタジオ(収容約300名)を使用。新春スペシャルの収録や春休み、収録日が祝日に当たる場合等、観客の増加が見込まれる回の収録は通常のスタジオより大きい第1スタジオ(収容約600名)を使用していた。第1スタジオを使用する時の告知は番組内で「次回はちょっと大きいスタジオで収録します」というテロップが表示されており、通常収録ではオープニングで舞台向かって右側から登場するところを第1スタジオ収録回では向かって左側から登場することで識別できた(第1スタジオと第2・第3スタジオとでは入口の位置が逆であるため)。ただし1988年10月 - 1990年9月は第2スタジオを夕方の帯番組『ざまぁKANKAN!』が使用していたため、第3スタジオ(面積及び収容人数は第2スタジオと同じ)または第1スタジオを使用した。このほか生放送が「パペポシアター」開催時(1988年3月21日[注 1]、後述)と500回記念(1997年4月5日)の2回行われ、1988年8月28日には読売テレビ開局30周年イベントの一つとして「鶴瓶上岡10000人のパペポTV大阪城ホールスペシャル」というタイトルの特番が生放送された。

公開収録も原則として事前申し込みが必要なく、予告された収録日に配布される入場整理券を入手すれば、自由に見学することが出来た。整理券の配布は番組開始当初収録日の夕方に配布されていたが、番組の人気から観覧希望者が多数集まるようになり、早朝から並ぶ観覧希望者が後を絶たなくなったため当日正午配布に繰り上げられ、その後更に朝9時半に繰り上げられた[注 2]。ただし、1993年頃から出演者両名のスケジュールの都合により2本分のまとめ撮りとすることが徐々に増え、朝から並んで順番を待つことが出来ない社会人などの救済措置を兼ねて2本目は事前にはがき申込みをして抽選に当選した視聴者にだけ公開するパターンが定着していった。観客はカメラに映る前列は床に座り、後列はパイプ椅子が用意され、回によっては立ち見の客もいた。フラッシュを焚かない事を条件に写真撮影も可能だった。

放送時間

讀賣テレビでの開始当初(1987年4月 - 1988年3月)は水曜日未明0:50 - 1:45(火曜日深夜)の放送であったが、1988年4月からは土曜日未明1:10 - 2:05(金曜日深夜)に枠移動し、1995年3月まで続いた。その後、1:25 - 2:20放送(1995年4月 - 1997年3月)→1:40 - 2:35放送(1997年4月 - 9月)と変化し、最後の半年は再び水曜日未明(火曜日市深夜)の放送(1:40 - 2:35)に戻った。

日本テレビでの放送は、1988年10月のネット開始当初は火曜日未明 1:10 - 2:05(月曜日深夜)に放送されていた。最初の3回は「入門編」と称して過去の内容が放送されていた。そして、湾岸戦争時の影響による1990年12月から1991年6月までの放送休止時期を経て[注 3]、番組のネットを再開した。ネット再開後は当初、火曜日未明 2:30 - 3:25(水曜日深夜)の放送となり、2ヵ月後元の曜日と時間帯に戻り、1994年10月に金曜日未明 1:40 - 2:35(木曜日深夜)に移動し[注 4]1995年4月には関西と同じ曜日で35分遅れの土曜日未明 2:15 -3:10(金曜日深夜)に移動し[注 5]、番組終了まで続いた。最終回に限っては放送日の都合上、日本テレビでの放送が読売テレビよりも先行されたため、日本テレビでは最終回前週分は未放送となった。


注釈

  1. ^ ただし、通常の放送枠ではなく日中に放送された。
  2. ^ 観覧希望者は朝に整理券を受け取り一度解散して、夕方に再集合していた。なお、収録日に関して番組後期はエンディングで日程の案内が表示され、その後讀賣テレビのみローカルで次週の収録の実施と整理券の配布時間の案内が表示されていた。
  3. ^ こちらは同じ上岡が司会の『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』(フジテレビ)で突然発表された。ただし、1991年の新春SPだけは放送された。
  4. ^ これは東京タワーに設置してあるアンテナのメンテナンスのため、月・火が早終了のためだった。
  5. ^ ただし当日のものではなく、原則1週遅れでの放送であった。
  6. ^ 当然、当該発言は口元、または頭部全体をマル禁(赤地に白枠で丸囲みした「禁」)のスーパーで覆われ、音声もパトカーのサイレンの音でかき消していた。なお、マル禁を使うようになったのは放送開始から1年半が過ぎた1988年秋からで、それまでは音声カットや口の部分を黒く塗り潰す処理だけだった。
  7. ^ 1回目の新春スペシャル直前に放送されたフジテレビ制作の1987年 - 1988年の回は鶴瓶が総合司会の一員だった。
  8. ^ 1990年、1993年を除く(1990年は1月最初の通常放送に出演)。
  9. ^ 前者は「SPECIAL FOUR DAYS」、後者は「名作復活祭」の副題がついていた。
  10. ^ 1988年新春スペシャル、1988年6月3日放送分を除く
  11. ^ 読売テレビエリアのみのローカルスポンサーだったため、実質的には同局サービスエリア内の事業を行っていた当時の近畿郵政局がスポンサーだった。
  12. ^ 広島テレビでは、加美乃素本舗の1社提供または同社を筆頭とした複数社提供での放送だった。
  13. ^ 1993年4月 - 1994年3月及び1998年1月 - 3月は中止されていた。
  14. ^ 1988年3月21日 - 27日。
  15. ^ 1989年10月3日・1992年5月13日。
  16. ^ 1992年5月25日。武道館でこういったトーク・イベントは初だった。
  17. ^ 1996年9月28日。
  18. ^ このときの新聞の見出しには「救急車ピーポーパーペーポー」と書かれていた
  19. ^ この「長居パニック」は、結局後の「JAPAN TOUR」に決着が持ち越され、大阪城ホールと武道館を含めて上岡が1勝した以外は鶴瓶が全て勝利した。
  20. ^ 大相撲の約1万人に対し、当イベントは約2万人もの観客が来場した。番組中の公表による数値。
  21. ^ 当時はヘアヌードの解禁が話題となっていたこともあり、それに便乗したアイデアと言われている。
  22. ^ アオリは、「初公開! トクオの性日記」「お尻にモグラを飼う男出現。」「スクープ 浪花座に聖徳太子出演か!!!」「悲惨、実父の一家皆殺し計画」「緊急特集 10年後の日本を考える!」「完全独白。ボクのヰタセクスアリス」。

出典

  1. ^ 日本民間放送連盟編「これぞローカル番組 在阪・在名テレビ10局」『月刊民放』第18巻第7号、日本民間放送連盟、1988年7月1日、13頁、NDLJP:3471031/7 
  2. ^ 第25回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。
  3. ^ マイケル宮内『笑えるけど超ヤバい! テレビ放送事故&ハプニング』、p110-p111、廣済堂出版、2007年7月、ISBN 978-4-331-51243-2
  4. ^ 『北日本新聞』1990年4月2日、1995年9月11日付朝刊、テレビ欄。
  5. ^ 『テレビ金沢開局10年誌』(2000年3月、テレビ金沢発行)60ページ。
  6. ^ 『北日本新聞』1997年4月1日付朝刊、テレビ欄。
  7. ^ a b 出典:山陽新聞1988年10月7日付朝刊24面テレビ欄


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