高力氏
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伝承・逸話
南朝伝説と高力氏
愛知県額田郡幸田町には、高力氏は南北朝時代、信濃国大河原の戦いで宗良親王に味方し、敗戦した熊谷氏の一族であるという伝承がのこっている[27]。ただし、真偽は定かではない。内容は以下の通りである。
- 延元元年/建武3年(1336年)夏、後醍醐天皇の皇子である宗良親王一行は井伊氏を頼るため遠江国へ向かい、大橋氏の青木城、吉良の宮迫、深溝の一の瀬、三ヶ日を経由し、井伊谷城へ到着した。このとき宗良親王を味方した武士の中に、豊根村に拠点を持ち、熊谷直実の末裔である熊谷小三郎直澄という地侍がいた。この勢力は次第に増強したが、延元3年/建武5年(1338年)に新田義貞が戦死、その後井伊谷城も落城した。宗良親王は信濃国の大河原に移ったが、敵軍のため「露とお消えになった」[27]。そこで宗良親王の皇子・尹良親王は浪合の地に移ったが、北朝方の攻撃にあい、親王方の諸士は各地に潜住した。熊谷小三郎直澄も額田郡大草城主の西郷氏を頼って隣村の高力村に住むこととなり、直澄は高力小三郎直澄と名乗った[27]。
また、このとき落ち延びた熊谷氏一族のうち、岩堀(現・愛知県額田郡幸田町大字菱池字岩堀付近)に定住したものは岩堀氏を称したとされている[28]。
織田信雄と高力氏
青山家蔵古文書および旧・額田郡高須村(現・愛知県岡崎市福岡町付近)にある織田家に伝わる家譜には、それぞれ高力氏が分村として同村を開拓した逸話、高力氏の人物が織田信雄の息子とされる人物を養子としたとされる逸話が記されている[1][29]。
分村・高須村の開拓
以下は、青山家蔵古文書に記されている、重長らが隣村であった土地を開拓して高力郷の分村とした逸話である[1]。
- 重長が一族で卜部に居住していた頃の1533年(天文元年)、大洪水で矢作川の支流が氾濫し、隣村であった山本四郎兵衛の領地が人家・田畑ともに流れ失せた。これにより、四郎兵衛の領地は砂や礫が連なる荒廃した河原となり放棄されていた。重長は近村の住民を雇い入れて荒れ地の開発に乗り出し、重長の二男・重正を筆頭支配人として、重正の8人の弟とともに開墾に出精した。重長はこの郷の始祖となり、本村である高力の「高」と荒れ洲の「洲」を組み合わせてこの郷を「高洲」と命名し、高力郷の分村とした[1]。
また、『三河国額田郡福岡村誌』などによれば[注釈 7]、重長・重正らは高須村に移住したとされ、「高洲」の由来は「流失した土砂が堆積した洲」であるとされる[29]。
織田氏との関係の伝承
以下は、旧・高須村にある織田家の家譜などに記された、重長の曾孫とされる人物が織田信雄の息子とされる人物を養子とし、同地の織田家の発祥となったとする逸話である[29][注釈 8]。
- 重正の孫であった直崇(通称・熊谷次郎左衛門)は香道に精通しており、織田信長の前でたびたび香を焚いた。また、織田信雄から深く懇望されたため、香道の真意を伝えた。1587年(天正15年)11月、直崇が清洲城に出仕したとき、信雄の側室であり伊勢国の社家の人物・久田某の娘である「園の方」が、妊娠5ヶ月であり暇が出ることとなっていた。直崇は日頃より信雄から恩情を受けていたため、信雄より園の方の取り計らいを命じられた。直崇は妻子を持っていなかったため、信雄と園の方との子供を自分の養子にすることを願い上げ、これについて信雄から許可があった。その際、信雄より、生まれた子供が男子であったら必ず申し出ることを指示され、直崇は帰国した[30]。
- 翌1588年(天正16年)4月5日、男子が誕生した。直崇は大変喜び、同年12月、この男子は信雄に謁見した。信雄は大変喜び、この子供を「信太郎」と命名した。信雄は信太郎について、この子が成長すれば必ず一郡の領主とするとして、正長の短刀、家系図、黄金2枚を与えた。直崇は喜んで帰国し、信太郎を養育した[30]。
- 1590年(天正18年)、織田家は滅亡した。直崇は憂いに耐えられず出家する志を強くし、自らの家を信太郎に譲り、園の方を信太郎の後見人とした。直崇は信太郎について、織田内府(信雄)の血筋であり織田氏の姓を捨てるのは忍びないと言い置き、自らは僧となった。直崇は織田氏の本国が越前国であることにちなみ、「越」の字に「崇」の字を付けて「越崇」と号した。越崇は同村・八郎右衛門の屋敷に庵を結んで隠居し、1625年(寛永2年)病死した。信太郎は以降高須村に居住し、「織田次郎左衛門信久」と名乗った[31]。
なお、高須村は江戸時代に600石を有し、1685年(天和5年)から松平右衛門太夫の領土、1688年(元禄元年)より徳川氏の領土となり、1690年(元禄3年)より幕領となったとされる[32]。
注釈
- ^ 熊谷正直とする書籍もある。
- ^ ただし、『姓氏家系大辞典』第2巻(太田亮、姓氏家系大辞典刊行会、1935年、2135頁)には直鎮の上洛は元弘3年(1333年)とされる。
- ^ 享禄3年(1530年)とする文献もある。
- ^ 幸田町史編さん室「ふるさとの今昔 (3) 高力邑と高須郷」『広報こうた』昭和49年1月1日号は、重長が移住したとする。また、同文献は、重長が高力城に落ちついたとしている。
- ^ 慶長9年(1604年)説もある。
- ^ 慶応元年以前は全く陣屋が置かれなかったのかどうかは定かではない。
- ^ このほか、『新編福岡町史』は織田家譜ならびに織田完之『織田家先霊ならびに恩人諸霊を祀る文』を出典としている。
- ^ 出典中446、447頁の現代語訳および448頁の家譜の原文(写真)を元に要約を示した。
- ^ 『寛政重修諸家譜』には、直道の男子は出生順に某(早世)、直忠、直延(松平朝矩五男)、某、某と表記されている。ここでは、直行以降は『安城歴史研究』の略系譜に基づいて表記した。
出典
- ^ a b c d e f g h 幸田町史編さん室「ふるさとの今昔(3) 高力邑と高須郷」『広報こうた』昭和49年1月1日号、幸田町、1974年、6頁。
- ^ a b c 新編岡崎市史編集委員会『新編岡崎市史 20 総集編』、新編岡崎市史編さん委員会、1993年、157、158頁。
- ^ a b 川合正治「高力家について」『安城歴史研究』第37号、安城市教育委員会、2012年、24頁。
- ^ a b c d e 新編岡崎市史編集委員会『新編岡崎市史 20 総集編』、新編岡崎市史編さん委員会、1993年、157頁。
- ^ a b c d e 島原市「ふるさと再発見 第3代島原藩主 高力忠房」『広報しまばら』平成29年10月号、島原市、2017年、17頁。
- ^ a b c d e f g h 川合正治「高力家について」『安城歴史研究』第37号、安城市教育委員会、2012年、58頁。
- ^ a b c d 新編岡崎市史編集委員会『新編岡崎市史 2 中世』、新編岡崎市史編さん委員会、1989年、381、382頁。
- ^ a b c 三上参次編 国立国会図書館デジタルコレクション『寛政重修諸家譜 第3集』、国民図書、1923年、725頁。
- ^ 『姓氏家系大辞典』 第2巻、太田亮著、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1935年、1423、1424頁。
- ^ a b “宇利城の概要”. 新城市. 2020年6月5日閲覧。
- ^ 新編岡崎市史編集委員会『新編岡崎市史 2 中世』、新編岡崎市史編さん委員会、1989年、380頁。
- ^ 新編岡崎市史編集委員会『新編岡崎市史 2 中世』、新編岡崎市史編さん委員会、1989年、379頁。
- ^ 幸田町史編纂委員会『幸田町史』、幸田町、1974年、121頁。
- ^ 『姓氏家系大辞典』 第3巻、太田亮著、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1936年、6237頁。
- ^ 『姓氏家系大辞典』 第1巻、太田亮著、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、613、614頁。
- ^ 川合正治「高力家について」『安城歴史研究』第37号、安城市教育委員会、2012年、26頁。
- ^ a b c 三上参次編 国立国会図書館デジタルコレクション『寛政重修諸家譜 第3集』、国民図書、1923年、726頁。
- ^ 幸田町「幸田の文化財と史跡めぐり (11) 高力清長の邸跡 高力城址」『広報こうた』昭和62年3月1日号、幸田町、1987年、17頁。
- ^ 川合正治「高力家について」『安城歴史研究』第37号、安城市教育委員会、2012年、30頁。
- ^ 「島原の歴史(年表)」『島原城薪能』、島原城薪能振興会、2018年、40頁。
- ^ 大村市史編さん委員会 (2015), 『新編大村市史 第三巻近世編』, 大村市, p. 397
- ^ a b c d 川合正治「高力家について」『安城歴史研究』第37号、安城市教育委員会、2012年、59頁。
- ^ a b c d 『研究紀要 28』「房総における近世陣屋」, 千葉県教育振興財団, (2013), p. 11
- ^ 川合正治「高力家について」『安城歴史研究』第37号、安城市教育委員会、2012年、41頁。
- ^ 川合正治「高力家について」『安城歴史研究』第37号、安城市教育委員会、2012年、45頁。
- ^ a b 川合正治「高力家について」『安城歴史研究』第37号、安城市教育委員会、2012年、46頁。
- ^ a b c 幸田町「幸田の伝説と民話 (9) 高力熊谷氏」『広報こうた』昭和61年1月1日号、幸田町、1986年、14、15頁。
- ^ “こうた豆知識”. 幸田町. 2020年6月5日閲覧。
- ^ a b c 福岡学区郷土誌委員会『新編福岡町史』、福岡学区郷土誌委員会、1999年、446 - 448頁。
- ^ a b 福岡学区郷土誌委員会『新編福岡町史』、福岡学区郷土誌委員会、1999年、446、448頁。
- ^ 福岡学区郷土誌委員会『新編福岡町史』、福岡学区郷土誌委員会、1999年、447、448頁。
- ^ 福岡学区郷土誌委員会『新編福岡町史』、福岡学区郷土誌委員会、1999年、449頁。
- ^ 川合正治「高力家について」『安城歴史研究』第37号、安城市教育委員会、2012年、25頁。
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