青木富夫 青木富夫の概要

青木富夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 07:39 UTC 版)

あおき とみお
青木 富夫
突貫小僧』(1929年)
本名 同じ
別名義 突貫小僧[1](とっかんこぞう)
生年月日 (1923-10-07) 1923年10月7日
没年月日 (2004-01-24) 2004年1月24日(80歳没)
出生地 日本神奈川県横浜市
死没地 日本東京都世田谷区
職業 俳優
ジャンル 劇映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー)、テレビドラマ
活動期間 1929年 - 2004年
主な作品
突貫小僧
大人の見る繪本 生れてはみたけれど
 
受賞
2000年ナント三大陸映画祭主演男優賞『忘れられぬ人々』
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経歴

横浜市に生まれ、実家が経営していた酒場に松竹蒲田撮影所の俳優が出入りしていたのが縁で、撮影所によく遊びに行くようになった[2]

1929年昭和4年)、ここで小津監督に見いだされ、小津の『会社員生活』に出演。同年、主演した『突貫小僧』が大ヒットし、松竹蒲田の子役スターとなった。12月には『全部精神異常あり』(斎藤寅次郎監督)に出演、斎藤監督のナンセンス喜劇でも重用された。

1931年(昭和6年)から芸名を「突貫小僧」と改める。

大人の見る絵本 生れてはみたけれど』(1932年)

以降、小津監督作品に12本に出演したほか、成瀬巳喜男監督、斎藤寅次郎監督、清水宏監督、五所平之助監督の名作や話題作に立て続けに出演。菅原秀雄加藤清一横山準葉山正雄末松孝行らと共に「松竹蒲田の名子役」と謳われ、松竹映画に欠かすことができない存在となった。

限りなき鋪道』(1934年)

学業では鎌倉中学校を中退して子役に専念。また、同時期に異父弟も「青木放屁」の芸名で子役として活躍していた。

1942年(昭和17年)に招集され、ペリリュー島の前線に送られる。

1946年(昭和21年)、復員。本名の青木富夫で松竹に復帰するが、大部屋俳優として端役での出演が続いた。1954年(昭和29年)、日活に移籍。ここでも端役として活躍。日活映画で欠かせないアクション映画や青春映画に多く出演し、榎木兵衛や河上信夫らと共に日活の名バイプレーヤーとなった。1971年(昭和46年)、日活がロマンポルノ路線になった後は出演作も減っていった。1972年(昭和47年)にフリーとなり、山本薩夫監督の『華麗なる一族』などに出演した。

晩年には、鈴木清順監督の『ピストルオペラ』、篠崎誠監督『忘れられぬ人々』などに出演し、後者は2000年(平成12年)にフランスのナント三大陸映画祭にて共演の三橋達也大木実とともに主演男優賞を受賞した。

2004年に肺がんのため死去。80歳没。遺作は『犬と歩けば チロリとタムラ』。

人物・エピソード

回想録『子役になってはみたけれど 小説突貫小僧一代記』(都市出版1998年)がある。

映画監督の周防正行は、小津作品へのオマージュとして、自らの監督作である『シコふんじゃった。』『Shall we ダンス?』『それでもボクはやってない』『舞妓はレディ』『カツベン!』に青木富夫という役名のキャラクターを登場させている。演じたのはいずれも竹中直人

出演した映画は300本以上に上る。


  1. ^ a b 『テレビ・タレント人名事典(第6版)』日外アソシエーツ、2004年6月、10頁。ISBN 978-4-8169-1852-0 
  2. ^ 貴田庄『監督小津安二郎入門 40のQ&A』朝日新聞社、238ページ。


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