禁色
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/26 23:55 UTC 版)
禁色勅許
9世紀半ばより、臣下に対し、禁色を勅許することが見られるようになった[8]。この禁色勅許は男性の場合、蔵人全般のほか、四位・五位の一部の殿上人に下され[9]、彼らに公卿待遇の服装を認めるものであった。また女官・女房に対する禁色の許可もあった。禁色を許すことを「色を聴(ゆ)る」とも言った。
禁色の勅許は天皇一代限りのもので、代替わりの際には無効となった。また、五位から四位への昇進や蔵人退任の際にも無効となり、再度勅許を必要とした。
蔵人以外の殿上人への禁色勅許は、原則として大臣・近衛大将の子か孫に与えられる特権で、これらの禁色を許された殿上人を特に「禁色人」とも称した。12世紀半ばには、禁色勅許の対象者は、後の摂関家・清華家に相当する家の出身者に限定されるようになった。特に摂関家の嫡流は元服と同時もしくは直後に禁色を許される慣例となった[10]。
禁色宣旨の例(「康富記」より)
男性官人が禁色勅許によって許されたのは、公卿と同様の文様のある生地(綾)や色を下襲や半臂、表袴に用いることであり、これは直衣や指貫、青色袍等にも及んだ。禁色を許されていない四位以下の官人(参議除く)は文様のない平絹を使わなければならなかった。また、禁色勅許を受けても、位色を超えた袍の着用は認められなかった(ただし11世紀頃には、位色は四位以上が黒、五位が緋に変化していた)[11]。
女性に対する禁色の許可は不明な点が多いが、10世紀初頭から天皇の乳母等に禁色を勅許する例が見られる[12]。また女房の間の身分として、上臈や一部の女房のみに特定の服装を許すことが見られたが、『満佐須計装束抄』の記述等から、その中でも青色・赤色の唐衣や地摺りの裳を許すことを「禁色」と呼んでいたと考えられている[13]。青・赤の唐衣は染色ではなく織色であり、地摺りとはステンシルの要領で草木の汁などで模様を染め出したものだが、宮中では金泥・銀泥を用いた豪奢なものであったという。女房の服装規定にはその他に、綾の制限や、袿の枚数の制限(数衣)等があった[14]。
- ^ a b 増田 2010.
- ^ 小川 1985, pp. 63–4. 小川によれば、江戸時代の有職故実研究の影響のもとに、井野辺 (1900)において「特種の色」の禁色と有文織物の禁色があったという認識が示された後、関根・加藤 (1917)によって1) 当色以上、2) 7色の特殊の色、3) 有文の織物の3種が禁色であると提示され、その後、この説が通説として長く踏襲された。なお、井野辺が特種の色としてあげたのは、黄櫨染、支子色、黄丹、紅、青、深紫であった。
- ^ 小川 1985, p. 63.
- ^ 井野辺 1900.
- ^ 小川 1991; 末松 2010.
- ^ 小嶋 1966; 津田 2009.
- ^ 鈴木 1984.
- ^ 大丸 1964; 小川 1985, p. 41; 茨木 1994. 知られる最も早い例は、仁寿1年(851年)の蔵人頭藤原氏宗、従五位下藤原仲縁、六位蔵人藤原良縄に対する禁色宣旨である。
- ^ 小川 1985. 蔵人ではない殿上人への禁色勅許として知られるもっとも早い例は、仁和3年(887年)1月の藤原時平(従四位下)と源興基(正四位下)に対する宣旨である。
- ^ 小川 1985, pp. 60-2等.
- ^ 小川 1990.
- ^ 知られる最も早い例は、延喜3年(903年)の源封子、源周子、藤原淑姫(いずれも醍醐天皇の更衣)に対する勅許である。
- ^ 鈴木 1984; 天野 2007.
- ^ 津田 2002; 天野 2007.
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