日向国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/26 17:43 UTC 版)
日向国 | |
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■-日向国 ■-西海道 | |
別称 |
日州(にっしゅう) 向州(こうしゅう) |
所属 | 西海道 |
相当領域 | 宮崎県[注釈 1] |
諸元 | |
国力 | 中国 |
距離 | 遠国 |
郡・郷数 | 5郡28郷 |
国内主要施設 | |
日向国府 | 宮崎県西都市(日向国府跡) |
日向国分寺 | 宮崎県西都市(日向国分寺跡) |
日向国分尼寺 | 宮崎県西都市 |
一宮 | 都農神社(宮崎県児湯郡都農町) |
「日向」の由来
文献上で一番時期が古い日向国の名称は、初代神武天皇(かむ やまと いわれびこ)が日向国の吾田村の吾平津媛を妃にしたという逸話に現れる。
神󠄀日本磐余彥天皇、諱彥火火出見、彥波瀲武 鸕鷀󠄁草葺不合尊󠄁 第四子也。母曰玉依姬󠄁、海󠄀童之少女也。天皇生 而明󠄁達󠄁、意󠄁礭如也、年十五 立爲太子。長 而娶日向國吾田邑吾平󠄁津媛󠄁、爲妃、生手硏耳命。—日本書紀
また、第12代の景行天皇が子湯県の丹裳小野を訪れ朝日を見た際に従者に「この国は日の出の方を直に向いている」と述べたことから「日向国」となった逸話があり、景行天皇と御刀媛(みはかしひめ)の息子の豊国別皇子が日向国造の祖となったことも記している[1]。
十三年夏五月󠄁、悉平󠄁襲國。因以居於高屋宮已六年也、於是其國有佳人、曰御刀媛󠄁。御刀、此云彌波迦志、則召爲妃。生豐國別皇子、是日向國造󠄁之始祖󠄁也。
十七年春三月󠄁戊戌朔己酉、幸子湯縣、遊󠄁于丹裳小野、時東望󠄂之謂左右曰「是國也直向於日出方。」故號其國曰日向也。
さらに、壬申の乱で天皇となった第40代天武天皇のあとの律令制により、あらためて西海道の日向国が令制国として成立した。
読みは、日本書紀には「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とある。
したがって、日向国は古くはひむかのくにであったところ、国造制度で新たな日向国ができ、律令制からのちはひゅうがのくにと呼ばれたと考えることもできるが、「譬武伽」を日向国とするには検討が必要という指摘もある[2]。
地理
古事記は、古代九州は筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)と呼ばれ[3]、白日別、豊日別、 建日向日豊久士比泥別 、 建日別の4面があったとしているが、日向国がこの4面のどこにあったかについては諸説ある[注釈 2]。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では筑紫国、豊国、肥国、日向国の4面を挙げている[4]。
日向国は、宮崎県や鹿児島県の本土部分を含む広域に渡っていたが、大宝2年(702年)には、隼人の反乱の端緒となった薩摩・多褹の叛乱が起きたため、現在の鹿児島県部分の西部は分割され唱更国(後の薩摩国)となり[5][2]、また、和銅6年(713年)4月3日には、肝杯郡、贈於郡、大隅郡、姶羅郡(現代の姶良郡とは別)の4郡が分割され大隅国となった[6][7]。
郡 | 郷 |
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臼杵郡 | 高日郷、速日郷 [注釈 3]、高千穂郷 [注釈 4]、都農郷、高鍋郷 |
児湯郡 | 檍原郷(あわぎはら)[注釈 5]、喜理島郷、橘小戸郷(たちばなおど)、佐土原郷(さとはら)、来理島郷(くるしま) |
那河郡 | 中川郷、吉田郷、明郷(あかり)、芹本郷、吾平郷 |
宮崎郡 | 日殿郷(ほどの)、太宮郷、松原郷、秋山郷、谷郷、三浦郷 |
諸縣郡 |
縣郷(あがた)、高屋郷、折本郷、玉屋郷、坂本郷、枝郷 |
また日向国には「五郡八院」という呼称があり、上記の5郡による行政区画と、真幸院、三俣院、穆佐院、新納院、飫肥院、土持院、櫛間院、救仁院の8院による租税区画に分けられ統治されていた。
江戸時代の藩については後述するが、米良・椎葉地域が肥後との間で近世初期まで曖昧であった等の領域の変化はあった[2]。ただし、郡構成は明治初期まで変化はなかった。
1883年(明治16年)の宮崎県再置の際、諸県郡は宮崎県に属する北諸県郡と鹿児島県の南諸県郡(志布志郷、大崎郷、松山郷の3郷)に分割され、さらに翌年、宮崎県の北諸県郡が北諸県郡・西諸県郡・東諸県郡、那珂郡が北那珂郡・南那珂郡、臼杵郡が東臼杵郡・西臼杵郡にそれぞれ分割された。
領域
明治維新直前の領域は、現在の宮崎県から西都市の一部(上揚・銀鏡・八重・中尾・尾八重・寒川)、児湯郡木城町の一部(中之又)、児湯郡西米良村の全域を除き、鹿児島県の一部(下記)を加えた区域に相当する。
宮崎県内の例外となっている区域は肥後国であったが、1872年(明治5年)に日向国に編入されている。鹿児島県内の区域のうち曽於市財部町下財部は1871年(明治4年)に、それ以外は1897年(明治30年)に大隅国に移管されている。
- ^ 成立当初の領域は、鹿児島県の本土部分も含む。
- ^ 『古事記』神代記。「久士比泥」は、くじひね、くしひね、と読む。日向の扱いには肥国説と熊曽国説がある。肥国説では、肥国の名「建日向日豊久士比泥別」に基づいて日向を含むと見る(西宮秀紀「記紀神話における日向」(『日本の神話 3 天孫降臨』(ぎょうせい)pp. 136-137)等)。
一方熊曽国説では、筑紫国(筑前国・筑後国)、豊国(豊前国・豊後国)、肥国(肥前国・肥後国)として、残った日向・大隅・薩摩3国を熊曽国と見る(『日本歴史地名大系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27等) - ^ 天照大神から十種の神宝を授かり天磐船で河内国(大阪府交野市)に天降って近畿地方に稲作を伝えたとされている、天孫であり瓊瓊杵尊の弟が、邇芸速日の名を持っている。
- ^ 日向国風土記は高千穂郷の項は、「この地、すなわち槵日千穂の峯あり。皇孫の神、始めてこの国、天降りたまうの所なり。高千穂者、貴く豊かに富むの辭なり」としている。槵日千穂の峯(くしひ ちほのみね)は、槵日高千穂之峯(くしひの たかちほのたけ)、槵觸之峯(久士布流多気、くしふるのたけ)とも書かれ、高千穂神社、槵觸神社(くしふる じんじゃ)、健男霜凝日子神社(たけおしもごおりひこ じんじゃ)などが関連神社。
- ^ 日向国風土記には、檍原郷が住吉神社の発祥地である旨が記載されている。
- ^ 『日本書紀』景行天皇17年3月12日条(訓は『宮崎県の歴史』(山川出版社)p. 54による)。
- ^ a b c d e f 『日本歴史地名大系 宮崎県の地名』(平凡社)p.56。
- ^ 古事記・日本書紀の国生み比較表
- ^ 『先代旧事本紀』神代本紀。
- ^ 『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。
- ^ 『続日本紀』巻二 大寶二年八月丙申条。「薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉」。
- ^ 『日向国』コトバンク 。
- ^ 日向国風土記。
- ^ 『遺跡で見る宮崎の歩み(旧石器~弥生)』。宮崎県埋蔵文化財センター。
- ^ 『塚原遺跡(宮崎市国富町)』。宮崎県埋蔵文化財センター。
- ^ 『宮崎県の地名』(山川出版社)p. 30。
- ^ a b 宮崎県埋蔵文化財センター。
- ^ a b c d 『日本歴史地名大系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27。
- ^ 『国史大辞典』(吉川弘文館)日向国項。
- ^ a b c 『日本歴史地名大系 宮崎県の地名』p. 57。
- ^ 『日本歴史地名大系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 28。
- ^ 「旧高旧領取調帳」では明治5年に肥後国球磨郡から所属郡が変更された14村も児湯郡として記載されている。
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