摂津茂和 経歴

摂津茂和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/08 10:23 UTC 版)

経歴

東京府出身[2]。中学時代には薄田泣菫永井荷風の作品を熟読しており、特に泣菫の風刺的な作品に強い影響を受けた[11]慶應義塾大学法学部に進学したが、当初は文科を志望したにもかかわらず、父から猛反対されたため、政治科へ進んだ[11]。25歳のとき、父に連れられてヨーロッパを旅行し、パリロンドンを回った[11]

慶應を1924年大正13年)に卒業後、貿易などの実業の傍らで[1]、友人の発行していたゴルフ雑誌に随筆を書いていた[11]。この文業は摂津曰く「素人のすさび」程度のものだったが[11]、これがゴルフ仲間である雑誌「新青年」編集長(当時)の水谷準の目に留まり、水谷の勧めで[11][12]1939年(昭和14年)3月号に「新青年」に『のぶ子刀自の太っ腹[13]』を掲載し、40歳にして作家としてデビューした[11]。その後も、ユーモア小説作家として活躍した[2]。水谷は、当時の日本文学にはユーモアが欠けていると考えて、1933年(昭和8年)にユーモア探偵小説を提唱したことを始め、P・G・ウッドハウスジョンストン・マッカレーを取り上げるなどして、ユーモア小説にかなりの関心を抱いていたが、日本に書ける人物がおらず、摂津に白羽の矢を立てたという[14]。また摂津自身は、当初からユーモア小説を志したわけではないが、どんな小説にも多少のユーモアと風刺を必要と考えており、そうした考えが自然に自分をユーモア小説へ進ませたと見ている[11]

1941年(昭和16年)に陸軍報道部嘱託として、山岡荘八久生十蘭棟田博らと共に、中支前線に従軍[11]1943年(昭和18年)には海軍報道員として、10か月間マニラに滞在した[11]。翌1944年(昭和19年)、自身にとって初の新聞小説『道は近し』を毎日新聞に連載した[11]1954年(昭和29年)から光文社の雑誌「面白倶楽部」に連載した小説『台風息子』は、小石栄一の監督、江原真二郎らの主演により、1958年(昭和33年)に映画化もされた[15]

小説家として14年間の作家生活の後[11]、ゴルフ史家として、ゴルフの著作や訳書を多く著し[5]、ゴルフ用語の由来[16][17]、ゴルフにまつわる名言や格言[18][19]、ゴルファーとしての心構えなどを説いた[20][21]。ゴルフ歴は40歳頃からであり、関東各地を始め、遠くは九州まで各地のゴルフ場を回っていた[22]。アメリカのゴルフ収集家協会(Golf Collector’s Society)に、日本人として初めて会員となり[17]、日本では日本ゴルフ協会の史料委員長を務めた[2][5]1979年(昭和54年)には同協会史料委員長として、兵庫県のゴルフ博物館であるJGAゴルフミュージアムの開館にも尽力し[4][23]、ミュージアム運営副委員長も務めた[2]千葉県のゴルフ場であるカレドニアン・ゴルフクラブの建設にあたっては、カレドニアンの会長である早川治良と親交があったことから、建設に対して強い影響を与えた[24]

1988年(昭和63年)に、食欲の減退から入院[25]。同1988年8月、胃癌のため、東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院で、89歳で死去した[7][8]


注釈

  1. ^ 『新青年』研究会 1988, p. 178より引用。
  2. ^ 『新青年』研究会 1988, pp. 178–179より引用。
  3. ^ 実際には、それ以前の1939年(昭和14年)に、摂津の『ローマ日本晴』が直木賞候補となっていた[3]
  4. ^ 菊池 1960, pp. 480–481より引用。

出典

  1. ^ a b 講談社 1973, p. 791
  2. ^ a b c d e f g h i j 日外アソシエーツ 1973, p. 1401
  3. ^ a b c 上田他 2001, p. 1045
  4. ^ a b 週刊ゴルフダイジェスト 2015, p. 162
  5. ^ a b c d e 摂津茂和氏の念い”. カレドニアン・ゴルフクラブ. 2021年4月25日閲覧。
  6. ^ a b 西沢忠. “摂津茂和氏との邂逅がリンクス思想の原点”. カレドニアン・ゴルフクラブ. 2021年4月25日閲覧。
  7. ^ a b c 「摂津茂和氏 死去 本名・近藤高男 作家」『毎日新聞毎日新聞社、1988年8月28日、東京朝刊、27面。
  8. ^ a b c d 「死亡 摂津茂和氏(作家、ゴルフ史家、本名近藤高男、近藤久男米国三井物産社長の父)」『北海道新聞北海道新聞社、1988年8月29日、全道朝刊、23面。
  9. ^ a b 『新青年』研究会 1988, pp. 178–179
  10. ^ 狩野務「日本庭園とゴルフ見聞記」『よみタイム』、2015年12月19日。2021年4月25日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 駿河台書房 1953, pp. 413–415
  12. ^ 「GOLF Part.3 Good Shot! 週刊ダイヤモンドが選んだ日本のベストコース150 第71回 第7位 鷹之台カンツリー倶楽部」『週刊ダイヤモンド』第91巻第39号、ダイヤモンド社、2003年10月11日、78-79頁、NCID AN00383144 
  13. ^ 『新青年』研究会 1988, p. 313.
  14. ^ 『新青年』研究会 1988, p. 224.
  15. ^ 台風息子”. Movie Walker. ムービーウォーカー. 2021年4月25日閲覧。
  16. ^ 吉岡英児「名キャディーは歌う プロの目に感心、逆に励まされ」『朝日新聞朝日新聞社、1993年6月7日、東京夕刊、3面。
  17. ^ a b 江川靖男「お答えします ゴルフの打数示す用語のいわれは?」『中日新聞中日新聞社、1996年10月6日、朝刊、8面。
  18. ^ 「日工ひろば 耳よりゴルフ場ガイド ゴロ寝派にゴルフ好著 名言集やミステリーもの」『日本工業新聞』日本工業新聞社、1992年12月26日、6面。
  19. ^ 「スポーツ物知り博士 ゴルフ編「ウエッジ」の種類」『スポーツニッポン』スポーツニッポン新聞社、1997年10月29日、2面。
  20. ^ 横内恭「編集局デスク ゴルフと3コン」『中日新聞』、1991年10月5日、朝刊、7面。
  21. ^ 「筆洗」『中日新聞』、2005年10月4日、朝刊、1面。
  22. ^ 摂津茂和「腰痛と温泉」『温泉』第46巻第2号、日本温泉協会、1978年2月1日、13頁、NCID AN00034859 
  23. ^ 摂津茂和「バードンの手」『かんぽ資金』第59号、簡保資金研究会、1983年4月1日、29頁、NCID AN00095616 
  24. ^ カレドニアン・ゴルフクラブ”. カレドニアン・ゴルフクラブ. 2021年4月25日閲覧。
  25. ^ a b 金田 1988, pp. 96–97
  26. ^ 菊池寛『菊池寛文学全集』 第7巻、文芸春秋新社、1960年4月20日(原著1942年)、480-481頁。 NCID BN03683936 
  27. ^ a b 魚住 2005, p. 108
  28. ^ 『野間省一伝』講談社、1996年7月、442頁。 NCID BN15267804 
  29. ^ a b リンクスの再発見”. 日本ゴルフコース設計者協会. 2021年4月25日閲覧。


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