天守
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/29 01:20 UTC 版)
概略
日本の城の天守は、住宅として利用された天正期の安土城(織田氏)や大坂城(豊臣氏)などの例は別格として、江戸時代を通して居住空間として使用された例は少ない。姫路城や熊本城などの江戸時代初期までに建てられた天守内には、井戸を伴う台所や便所、畳敷きの部屋など居住設備を設けていた例もあるが、城主は本丸や二ノ丸、三ノ丸などに建てられた御殿で政務や生活を行い、天守はおもに物置として利用されることが多かった[2]。
江戸時代初頭、徳川幕府に届出をする際に天守の名称を憚った櫓の例があり、現在ではそれらの象徴的役割にあった櫓も天守に分類し、それらを総称して天守建築ということがある。外観で2重から5重のものがあり、安土桃山時代の末には最終防衛拠点としての位置づけがされており、本丸に築くことが多かった。本丸の中で天守をさらに囲う郭を造り、この郭を天守郭・天守曲輪(てんしゅくるわ)や天守丸(てんしゅまる)などと呼んだ。ちなみに、天守や櫓を建てることを「 - を上げる」という。
城によっては、小さめの多重櫓を小天守や副天守また小天守との間程の規模のものを中天守などといい、姫路城天守群のように小天守が複数ある場合には方角を冠することもある。それらがある場合特に大きな天守を、大天守ということが多い。主体の櫓に付属する櫓のことを続櫓(つづきやぐら)というが、天守に付属する櫓のことは付櫓・附櫓(つけやぐら)という。付属櫓・附属櫓(ふぞくやぐら)ということもある。
なお、天守は、櫓と同じく「基(き)」と数えるが、一般住宅と同じく「棟(とう・むね)」と数えられることもある。
表記と呼称
「てんしゅ」の漢字表記は「殿主」「殿守」「天主」なども当てられる。「天守閣」は明治時代前後に見られるようになった俗称である[3]。建築学の学術用語では「天守」(てんしゅ)が用いられている[4]。 「てんしゅ」の名前の起こりには諸説ある。以下にいくつか紹介する。
- 帝釈天が、外郭をなす持双山に囲まれた須弥山にあって天部を主催した、という仏教思想の須弥山の姿に由来するという説[5]
- 天主(デオ、デウス)を楼閣内に祀ったからというキリスト教思想に由来する説[6]
- 岐阜城の天主が始まりで、織田信長が策彦周良に依頼して、岐阜城の麓にあったという4階建ての御殿に命名したものという説(宮上説)[7]。
- 主殿(守殿)を守る建物という意味で「殿主」「殿守」と呼称され、後に「殿」の文字が「天」に転じた[5]。
なお、「大天守」と「小天守」の呼称は、『金城温古録』蓬左文庫本では「オウ」と「コ」、鶴舞図書館本では「ヲホ」と「コ」の読み仮名を振っており、読みは「オウテンシュ」と「コテンシュ」としている[8]。また、『金城温古録』では「大天守」の表記は一般論を語った部分に事実上一例しかなく、尾張藩では「大天守」ではなく「御天守」を呼称としていた[8]。
機能
天守は、一城の象徴的なものである。天守はまず軍事施設、要塞としての機能を持っている[8]。天守の起源の一つに関して「井楼」(物見櫓)に求める説がある[9]。天守は城郭内で最も安全な場所とされ、戦時には司令塔となり、大垣城の戦いのように武器修理の拠点として使用された例もある[8]。
一方で天守は政治権力の象徴とされ、巨大な白亜の天守を持つ姫路城や金鯱で知られる名古屋城などにみられる[8]。見晴らしや防御力などの軍事的実用性を求めるのであれば、頑丈な物見櫓がその役を担う。天守はそれに加えて、城主の権威を誇示するための象徴性を求めるのである[10]。
慶長期には、岡山城天守や熊本城天守のように書院造の要素を含んだ天守が建てられ、儀式や迎賓、有事の避難場所などにも使われた[11]。一方で、徳川家康の名古屋城天守や広島城天守のように、外観を重視して内部をなるべく簡素に造ったものも表れ、城主や客人が立ち入る建物としての機能が天守からは省略され始めた。その後は空き家であることが多く、物置として用いられることも少なくなかった[3]。
江戸時代の兵学では、天守の10の利点と目的が「天守十徳」として述べられている[12]。
- 城内を見渡せる
- 城外を見晴らせる
- 遠方を見望できる
- 城内の武士の配置の自由
- 城内に気を配れる
- 守りの際の下知の自由
- 敵の侵攻を見渡せる
- 飛び道具への防御の自由
- 非常の際に戦法を自在にできる
- 城の象徴
注釈
出典
- ^ 西ヶ谷恭弘監修、枻出版社編『再入門 オトナのための城』(別冊Discovery Japan)枻出版社、2015年、ISBN 978-4-7779-3660-1
- ^ お城からの手紙vol.29
- ^ a b c d 三浦正幸『城のつくり方図典』小学館、 2005年、ISBN 4-09-626091-6
- ^ 内藤昌編著『城の日本史』講談社、 2011年
- ^ a b 城戸久『城と民家』毎日新聞社、1972年
- ^ 田中義成「天守閣考」『史学会雑誌』新年号、1890年
- ^ 宮上茂隆『復元模型 安土城』草思社、 1995年、 ISBN 4-7942-0634-8
- ^ a b c d e f g h i j k l m 服部英雄. “名古屋城天守考・天守はなぜ高いのか”. 名古屋市. 2021年4月10日閲覧。
- ^ a b c d e 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社, 1996年,ISBN 4-05-500160-6
- ^ 内藤昌『復元安土城』講談社、 2006年
- ^ NHKスペシャル「安土城」プロジェクト 『信長の夢「安土城」発掘』
- ^ 西ヶ谷恭弘『定本 日本城郭事典』
- ^ 西ヶ谷恭弘監修『日本の城』世界文化社、1997年
- ^ a b c 三浦正幸監修『【決定版】図解・天守のすべて』学習研究社、2007年、ISBN 978-4-05-604634-2
- ^ 天文12年(1543年)に記された『細川両家記』の永正18年(1521年)2月17日の条
- ^ 木戸雅寿「城から見た 秀吉の遠方支配」石井正明ほか執筆『秀吉の城と戦略』成美堂、1998年
- ^ 加藤理文編『城の見方・歩き方』新人物往来社、 2002年、 ISBN 4-404-03003-7
- ^ 全国城郭管理者協議会編『城のしおり』全国城郭管理者協議会 2005年
- ^ 坂井秀弥・本中眞 編『野外復元 日本の歴史』新人物往来社、1998年
- ^ a b 学習研究社編『歴史群像シリーズ よみがえる 日本の城 30』学習研究社、 2006年
- ^ 掛川市商工観光課発行「掛川城パンフレット」
- ^ “台風で落城した、小阪城が復活!NHK「修繕屋」の手でよみがえる”. 週刊ひがしおおさか (2019年1月6日). 2023年9月29日閲覧。
- ^ “「尾道城」の解体検討 市、観光施設整備へ”. 中国新聞アルファ. (2018年2月17日). オリジナルの2018年2月18日時点におけるアーカイブ。 2020年5月15日閲覧。
- ^ a b c “「尾道城」の解体 年内にも着手”. 中国新聞デジタル (2019年11月22日). 2019年12月18日閲覧。
- ^ [国道221号沿い、こんな所になぜ城が…出身男性が半世紀かけた夢 “国道221号沿い、こんな所になぜ城が…出身男性が半世紀かけた夢”]. 讀賣新聞. (2022年4月7日)2023年3月5日閲覧。
- ^ 地域交流センター 施設概要2018年、常総市
- ^ 茶色一面、必死の救助作業=屋上やベランダ、助け待つ姿-濁流のみ込まれた常総上空2015年9月10日 時事通信 Amebaニュース
- ^ 公益法人等の詳細 法人コード:A024887 法人の名称:一般財団法人佐和山三成会 法人番号(JCN)9160005004889 「事業の概要(3)佐和山遊園(工作物の展示施設)の管理、運営に関する活動」とある。公益法人データベース 総務省
- ^ “痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け”. 毎日新聞. (2016年3月25日) 2017年7月4日閲覧。
- ^ 石田三成の佐和山城、徳川に破壊尽くされていた 彦根市教委調査で明らかに、産経WEST、2016年3月26日
- ^ しろうや!広島城 第15号 - 広島城
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