大江音人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 15:54 UTC 版)
人物
性格は静かで落ち着いており、飾り気がなく口数が少なかった。眉が広く目は大きく大柄で立派な顔立ちをしており、風格もあった。また、声も大きくて美しかった[8]。
政体・故事に通暁し、政務において疑義が生じる度に朝廷から諮問を受けたという[8]。また学者としても知られ、通儒と称された。菅原是善らと『貞観格式』の撰上を担当、その上表文と式序を作成し、また『日本文徳天皇実録』の編纂にも参画した。『群籍要覧』『弘帝範』の編纂も行い、家集に『江音人集』があったとされるが、いずれも散逸して現在には伝わっていない。
官歴
※日付=旧暦
- 天長10年(833年) 日付不詳:文章生
- 承和4年(837年) 日付不詳:文章得業生
- 承和5年(838年) 日付不詳:備中目
- 承和9年(842年) 日付不詳:流罪尾張国(承和の変連座)[9]
- 承和13年(846年) 1月13日:少内記
- 承和15年(848年) 1月7日:従五位下。2月24日:大内記
- 嘉祥3年(850年) 11月25日:東宮学士
- 仁寿2年(852年) 11月1日:兼民部少輔
- 仁寿3年(853年) 7月1日:兼大内記、民部少輔・東宮学士如元
- 仁寿4年(854年) 1月7日:従五位上
- 斉衡3年(856年) 1月11日:兼左少弁修理東大寺大仏像長官、東宮学士如元
- 天安2年(858年) 3月18日:兼丹波守、去左少弁。11月7日:正五位下。11月25日:兼式部少輔、去丹波守。12月8日:兼右中弁
- 貞観元年(859年) 12月:権左中弁、式部少輔如元
- 貞観2年(860年) 11月16日:従四位下
- 貞観3年(861年) 1月13日:左中弁、式部少輔如元
- 貞観5年(863年) 2月10日:右大弁
- 貞観6年(864年) 1月16日[10]:参議、右大弁如元
- 貞観7年(865年) 3月9日:兼播磨権守
- 貞観8年(866年) 1月7日:従四位上。3月23日:正四位下。10月15日:大枝姓から大江姓に改姓
- 貞観9年(867年) 1月12日:兼左大弁
- 貞観10年(868年) 5月26日:兼勘解由長官。9月:兼美濃守
- 貞観12年(870年) 日付不詳:去美濃守
- 貞観14年(872年) 2月15日:兼近江権守
- 貞観16年(874年) 1月7日:従三位。2月29日:兼左衛門督、去左大弁。3月7日:兼検非違使別当
- 貞観17年(875年) 日付不詳:去近江権守
- 元慶元年(877年) 11月3日:薨去(参議従三位行左衛門督)
系譜
- ^ 『朝野群載』三所収、大江匡衡「熱田宮祈請男挙周明春侍所望状」(長徳4年11月9日付)
- ^ 『日本三代実録』貞観10年閏12月28日条
- ^ 『日本三代実録』貞観8年10月15日条
- ^ 『大日本史』氏族志による。但し『姓氏家系大辞典』ではこの説を臆説に過ぎないとしている。
- ^ 『本朝皇胤紹運録』では音人を阿保親王の子としている。
- ^ 今井源衛「大江音人阿保親王子息説をめぐって」『王朝の物語と漢詩文』(笠間書院、1990年)
- ^ 目崎徳衛「在原業平の官歴について」『平安文化史論』(桜楓社、1968年)
- ^ a b 『日本三代実録』元慶元年11月3日条
- ^ 『公卿補任』貞観6年(864年)条の尻付
- ^ 『日本三代実録』。『公卿補任』では1月13日
- ^ 『公卿補任』、『尊卑分脈』による。
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