坂本龍馬 評価

坂本龍馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/21 13:38 UTC 版)

評価

今幡西衛の尽力により建てられた京都円山公園 龍馬(左)と中岡慎太郎(右)の銅像(写真は戦後再建された2代目の像)・北緯35度00分11.08秒 東経135度46分54.63秒
海援隊京都本部のあった材木商「酢屋」(京都市中京区
「坂本龍馬寓居之趾」石碑(酢屋前・北緯35度00分30.3秒 東経135度46分11.9秒
「坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地」石碑(京都市河原町北緯35度00分20.3秒 東経135度46分08.7秒
龍馬・慎太郎の墓がある霊山護国神社(京都市東山区
護国神社の龍馬・慎太郎像
坂本龍馬宿泊所跡 升屋屋跡(広島県福山市北緯34度23分05.0秒 東経133度23分02.6秒
龍馬自筆の『新政府綱領八策』(国立国会図書館)

同時代

  • 西郷隆盛
    • 「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
    • 「直柔(龍馬)は真に天下の英傑なり」
  • 木戸孝允「大兄は御心の公明と御量の寛大とに御任せなられ候てとかく御用捨これなき方に御座候」[99]
  • 岩倉具視「中岡・坂本二子を見るを得たるは大橋子の恵みなり。誼を条公に通じ、交を西郷、木戸、広沢、黒田、品川五子に結びたるは、中岡・坂本二子の恵みなり」[100]
  • 松平春嶽
    • 「坂本龍馬氏は土州藩士にして国事の為に日夜奔走して頗る尽力せしは衆庶の知る所なり」[101]
    • 坂本龍馬は土州藩なり。すこぶる勤王家にして国家のため尽力せし人なり
  • 武市半平太
    • 「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)
    • 「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名に恥じず」(獄中で)
  • 武市富子「(龍馬が庭先で用を足すことに対し)龍馬さんはいつもこれだから困る」
  • 平井収二郎「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」(龍馬脱藩後)
  • 板垣退助
    • 「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」
    • 「一介の武弁、而して海南の素族に起し、能く天下に周旋し王政復古の大業を翼賛し、遂に刺客の難に斃れし坂本龍馬君の如きは、其の烈洵に千載に亘りて朽ちずと謂ふべし(『坂本龍馬顕彰碑[注 41]』の碑文より)」
    • 「板垣の今日あるは偏に坂本先生、中岡先生の御陰様で御座います」(上記『坂本龍馬顕彰碑』建立の御礼に坂本家を代表して宍戸茂[注 42]が、東京の板垣退助に挨拶に訪れた際、板垣が茂に対して語った言葉)
  • 後藤象二郎「(龍馬が生きていれば総理大臣になっていたかの問いに)彼奴は政治家ぢゃない。商売人だよ。三菱だな…」[102]
  • 田中光顕
    • 「(龍馬の写真を見て)あれはよくできすぎちょる。ほんとは色が黒うてのう。背丈は大がらで五尺七寸くらい。あんな好男子じゃなかった」
    • 「龍馬は詩など書くような男ではなかった」
    • 「坂本という男は元より画など描いたことのないのに其の死んだ後に坂本の描いたという偽の書や画が盛んに出る。中には立派な印を押したものさえあるが僕は坂本は印など持って居ないと信じていた所が、下関旧本陣伊藤九三の家にある坂本の手紙の中に梅の花片を五ツかつらねて其の中に太郎という字を彫ってあるのがある。つまり才谷梅太郎ということだ。これは意外だ。やっぱり坂本も印を持っていたものだ。この時あまり大きな口は叩けぬものだと驚いたことがある」
    • 「闊達磊落な男で、長州で言えば高杉晋作の型に似てる」
    • 「(龍馬がお龍を連れて出歩くことに対し)これにはどうにも驚かされた。男女同行はこの頃はやるが、龍馬は維新前石火刀杖の間において平気でこういう狂態を演じていた。そういうところは高杉とそっくりである」
    • 「あまり人には見せなかったが、裸になると背中は真黒だ。そのうえ黒毛がさんさんとして生えていたのは珍しい。『龍馬のいわれがわかったか』彼はそう言ったものだがなるほど、この背中を見ると龍馬の名にふさわしかった」
    • 「見廻組・新選組のものにしきりにつけねらわれた。『君は危険だから、土州藩邸に入れ』伊東甲子太郎がこうすすめたこともあったが彼は聞き入れなかった。藩邸に入ると門限その他、万事窮屈の思いをせねばならない。自由奔放、闊達不覇の彼はそういうことを好まなかった。で、やはり名をかえ藩邸の附近に宿をとっていた。のみならず彼は平生『王政維新の大業さえ成就したなら、この一身もとよりおしむ所にあらず、もう無用の身だ』といっていた」
    • 「坂本は海援隊を組織して、その指揮をしていた。これは中岡の陸援隊に相対したものであって彼の意中には海国日本の開発を抱蔵していたことは誤りない。龍馬の献身報国の至誠は死後といえども祖国の上を守っている。死してなお死せずというのは思うに龍馬のごとき人物であろうと思われる」
    • 「君たちは竜馬、竜馬と大そうな男のようにいうが、僕たち友人からみればそれほどの男と思ったことはない。ただ竜馬がばかじゃないかと思ったのは、刺客につけまわされている中を例のお竜をつれ、よさこいなど口ずさみながら四条大橋あたりを歩いているところは本当にこの男ばかじゃないかと思ったよ」
  • 大石弥太郎「龍馬は帯解けひろげのバタラゲたる男なり」
  • 谷干城「容貌は丈高く、顔長く、色浅黒く、満面点々たる黒子あり。誠に見留め易き人相なり」[103]
  • 土方久元「維新の豪傑としては、余は西郷、高杉、坂本の三士を挙ぐべし。三士共に其の言行頗る意表に出で、時として大いに馬鹿らしき事を演じたれど、又実に非凡の思想を有し、之を断行し得たりし」
  • 佐々木高行
    • 「元来、坂本と言う男は時と場合とにより臨機応変、言わばデタラメに放言する人物なりき。例えば温和過ぎたる人に会する時には非常に激烈なる事を言い、これに反して粗暴なる壮士的人物には極めて穏和なる事を説くを常とせり。斯様の筆法なる故に、坂本には矛盾などという語は決してあてはまらぬなり。昨日と今日と吐きし言葉が全く相違するといっても少しも意とせず、所謂人によりて法を説くの義なりと知るべし」
    • 「坂本は時として随分過激な語を吐きしが、性来は頗るやさしき男なりき。老人、幼者、婦女等に対しては殊に穏かにせり。長崎に在りし際、時々部下の壮士を率いて酒楼に上りし事がありしが、女共は何時も『坂本サン、坂本サン』と言いて非常に慕いたり。尤もこれは単に個人として坂本の親切に感ずるばかりでなく、坂本が居る時は壮士等は敢えて乱暴の振舞いをなさぬ故に、坂本の来るは彼等の歓迎すべきはずなりき。坂本また言いし事あり。『我々は今国事に奔走して幕府の指目する所となり居れば、何日何時縛につくやも測られず。もし萬一我々が、芸妓風情と相携えて撮影することありて、之により其踪跡を物色せらるるあらば、志士の面目として大いに恥づべき業なれば、我々じゃ断じて此の如き卑猥の行為あるべからず』と。彼は疎大豪放なるが如くして、其實思慮の周密なること斯の如し」
    • 「坂本は目的を定めなば必ず之を達する手段を講究したり。余はある夜、坂本と種々の談話を交換したりしが、此時坂本言う『我国に耶蘇教を輸入し、以て幕府を苦しめ倒さん』と。余言う『もし幕府を倒し得るとするも、該教の蔓延は我国體上の大変なり』と。双方論ずる事久し、結局両人共に耶蘇教の何にものたるを知らず。俗に言う盲人の叩き合いにて何の厄にも立たず。深更に至り此等の研究は他日に譲るとなし、果ては大笑いを催しつつ寝につきたり。坂本が目的に対して其手段を講究すること此類なり」
    • 「才谷は一見婦人の様な風采であるが、度量はなかなか大きい」
    • 「才谷はなかなかの計画家」
    • 「才谷は実に時勢によく通じて居る」
    • 「才谷は度量も大きいが、其の遣り口はすべて人の意表出て、そして先方の機鋒を挫いて了とうにする。実に策略は甘い(心地よい)ものであった」
  • 中島信行「坂本氏は時々じつに意表に出ずる事を言う人なりき」
  • 高松太郎
    • 「直柔、容貌温厚、言語低静にして志気卓犖英気なり。武技を喜くし、好んで史書を読む」
    • 「資性豪宕、不羈小節に拘わらず。嘗て読書を好み、和漢の史子を渉漁す」
    • 「少より跌宕小節に拘わらず。長ずるに及て博く和漢の史籍に跋猟し、また武技を喜めり。初め本州の人、日根野義興に学び、のち東府に遊んで千葉周作に従い、其技を研鑽す。故に身体強壮の人なり」
    • 「我輩はハシゴをしても及ばず」
  • 寺村左膳
    • 「坂本龍馬なる者は先年御国許出奔し而長州へ行、長藩之浪士輩と結び大に人望を得たる者のよし、薩長両藩一時葛藤を生じたる時も、頗る尽力して其和解を計れりと言」[104]
    • 「浪士之巨魁」(薩土盟約時)[105]
  • 岡内重俊「藩商高知より来る。人物最も狡猾なり。余之を龍馬に告げたるに、龍馬平然として『商人の狡猾なるは当然なり。狡猾ならずんば利を得る能わず』と答え、余をして辞に窮せしめたり」
  • 大江卓
    • 「(いろは丸事件の談判に中島作太郎が選ばれたことを評し)人もあらうにこの青二才を大任に当たらせた所に坂本の眼識もあらうというもの。しかし中島の大功に酬うるに僅かに金百両をもってしたのには、我々も其の賞の余りに吝なるに驚いたが、後に到って考えて見れば、若い者に余り大金を持たせるのは何うせ善い事はないとの遠謀ある老婆心からであったろうと一層感心したのであつた。坂本の人物について、かつて板垣(退助)がこういうことをいった。『坂本が若し生きていたならば、或いは実業家となって、五代友厚の少し大きいのになつたらうョ』と、板垣にはまた板垣の見る所があったのだろう」
    • 「坂本は広野の猛獣であった」
  • 中江兆民「予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるがゆえに、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐なまりの言語もて、『中江のニイさん、煙草を買ってきてオーセ』などと命ぜらるれば、快然として使いせしことしばしばなりき。彼の眼は細くして、その額は梅毒のため抜けあがりおりたり」
  • 中城早苗「坂本は権平の弟にして郷士御用人、本丁に住す。一絃琴を玩べり。才谷は色黒満面よりアザあり。惣髪にて羽二重紋付羽織袴(白き様なる縞の小倉袴)、梨地大小、髪うすく柔和の姿なり」
  • 吉田数馬「少年の時分二三の友人と共に坂本先生に伴われて種崎へ桃見に行った。其の休憩した掛け茶屋の女は嘗て、坂本先生の家に奉公したものであったが、坂本先生が黒い盲縞の羽織袴を著けて居るのを見て、『坂本の旦那、弥智がないじゃありませんか(土佐の方言にてとんでもないことをするとの意)。そんな着物を着て』と言いしが、坂本先生は只にやりにやりと笑いながら、何も答もしなかった。帰途についた時、坂本先生は『今日は下駄が三分で刀が二朱じゃ。滔々たる天下只奢移淫靡を是事としている。世の先覚者は率先して三百年の惰眠を打破せねばならぬ。それで俺は女の注目を惹く様な縞柄の着物は著ぬ』と云った」[106]
  • 土居楠五郎「道場へ来て龍馬は心機一変、おねしょも泣き虫も一ぺんに飛んでしもうた。朝は真っ先に夕べは最後まで、飯を食わんでも剣道の稽古一筋。愉快でたまらん、面白うてたまらん、そんな気持ちでなんぼでもやる。『坂本、もうよかろう』と言うと『先生もう一本、もう一本』といくらでもうってかかる。(中略)そこで体当たりをやると、体は大きいが若いのでぶっ倒れる。すると跳ね起きてまたかかってくる。襟首をつかんで前に引き倒すと腹ばいに延びる。それでもすぐ起きてまたかかってくる。この根性にはすっかり感心した。一度道場内の試合、龍馬が勝ち放し。二つも三つも年上のものを。この時は祖父も師匠達もびっくり。弟子達もびっくり。龍馬自身もびっくりということだった」
  • 池元徳次「龍馬さんは、さいさい篠原街道を舟入川に沿うて東の方へ行きよった。肩を傾けて風を切るように意気揚々と歩く人じゃったが、道ばたで子どもがおるのを見かけると傍へ寄っていって頭をなでたり『早よう太うなりよ』と声をかけたりしてかわいがった。そんで子どもらあは龍馬さんを慕うて、もぶりつきよった。才谷屋は高須、新木に領地があったからか、袋などをぶら下げて、あの辺りをよう歩きよった。龍馬さんはその時分、五台山におったことがあるしのう。あしはそのころ山仕事もしよったきに五台山の山へもよう出かけたが山の中の一軒の家で龍馬さんは一人で、よう読書をしよったのう。あしは行きし戻りしによう見たもんじゃった」
  • 原考徳「龍馬は子供好きなりし故、予も戯れて其背中に飛び付き負はれなどせり。然るに龍馬は生まれつき毛深き性にて、其の胸にも背にも長き毛生ひたり。夫れを人に恥ぢて自分の肌を見らるることを厭ひしよし。故に予の母しばしば予を戒めて、汝龍馬氏に戯れるとも決して其の衣襟をかきはたけたり杯すること勿かれと諭されたり。龍馬は右肩か左肩か片方の肩を怒らして歩行く癖あり。色は浅黒き方なりし、肩の上に大きなる黒痣あり、その右なるか左なるかは忘れたり。躯幹偉大にして、武市も背高き人なりしも、坂本はも少し丈夫にて大きく見えたり。一体物には構はぬ人にて体裁をつくろはず路など歩行き居るを見るに、昂首端正なる姿はせず、考事に耽りでもしながら歩み居る様にてありたり。時には朱鞘を帯びたることもありし、帯刀は一体に長刀なりし、撃剣の盛なる時代にて稽古に面をかぶる為め、頭髪乱れがちなれば、紙縒りもて髷を結ひ居たり」(原の談話 昭和6年聞き取り)
  • 宮地彦三郎「海陸隊長一時に失したり。これ以後、才谷くらいの豪傑は土州には生じ申さず、上下泣涕の至りに堪らず候」[107]
  • 豊川良平「故人(龍馬)を一言して評すれば稀に見る勤王家で極く大膽な度量の多い反面には亦た非常な真面目の且つ親切な人であった。背丈高く肉附が良く、恰度今の海軍々令部長島村大将(島村速雄)に彷彿たる格好で風貌魁偉な處にも何処やらに優しみのある柔和な顔であったと記憶する。何分故人が自分の世話を焼て呉れた当時は私は八歳の腕白盛で其頃トンコロリと言って非常に流行した安政の虎列拉(コレラ)に自分の母親が罹って亡くなったのでツイ近所であった龍馬氏は廿歳前後の屈強な剣士であったのであるが、毎晩のように訪ねて来て呉れては私の旧名、春弥を呼で親切に慰め労わって呉れた。殊に私が九歳の正月、足袋が間に合わぬので外出する事が出来ず困っているのを見て、祖母を手伝って片足の足袋を逞しい指先で縫って呉れた上、着物まで着せて呉れて『夫れ遊びに行け』と手を取って連れ出して貰った事などもある。其当時は武芸が旺であったので、当時日根野(日根野弁治)と言う道場に通っていた龍馬氏は折れた竹刀を合せて立派な子供の竹刀を拵え、武士の子供は剣術が出来ねばならぬと言って、親切に教えて呉れた。此の様な風で藩の者からは非常に評判が良かったが、その大膽な事も驚く許りで、私の継母の実家の池田(池田寅之進)と言う者が正義の為、喧嘩をして相手を切り殺し大騒ぎをしている處へ単身出掛けて行って、群る相手を追い払い、立派に介錯して遣った事には衆人が其豪勇沈着さに舌を捲いた。此のような事は屡々見受けられた」
  • 勝海舟
    • 「聞く薩、長と結びたりと云。又聞く坂本龍馬、長に行きて是等の扱を成す歟と。左も可有と思はる」(薩長同盟後、海舟の日記)
    • 「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
    • (土佐が大政奉還を建白したのは大勢を洞察した卓見か、ただその場の小策に出たためかと問われ)「あれは坂本がいたからのこと、土佐はいつも筒井順慶で伏見のときも、まったくの日和見をしていた」
    • 「土佐では(人物と言えば)坂本龍馬と岩崎弥太郎の二人だった」
    • (龍馬が西郷を大きな釣鐘に例え評したことについて)「評する人も評する人、評さるる人も評さるる人」
    • (同じく龍馬の西郷評について)「余、深く此言に感じ実に知言となせり。およそ人を見るの標準は自家の識慮に在り。氏が西郷を評するの語をもって氏が人物を知るに足らむ。龍馬氏が一世の事業の如きは既に世の伝承する所、今敢えて賞せず。」
  • 勝逸子「小曾根にいたころ坂本龍馬が『お嬢さん、お嬢さん』とよく抱いてくれました。龍馬は首をふる癖があり、胸毛が濃かった」
  • 大久保一翁
    • 「この度、坂本龍馬に内々逢い候ところ、同人は真の大丈夫と存じ」
    • 「龍馬は土佐随一の英雄、いはば大西郷の抜け目なき男なり」
    • 「(土佐に非凡の人なきやの問いに)アル、アル、大アリである。坂本龍馬という男がある」
  • 永井尚志「後藤(象二郎)よりも一層高大にして、説く所も面白し」[108]
  • 高橋泥舟「坂本龍馬『土佐藩の三人の中で一番の人物』、中岡慎太郎『格別に有志ではない』」(坂本と中岡、間崎哲馬に対しての人物評価)[109]
  • 伊藤博文「坂本龍馬は勝安房(海舟)の門人で、壮年有志の一個の傑出物であって、彼方へ説き、こなたへ説きして何処へ行っても容れられる方の人間であった」[110]
  • 井上馨「薩長聯合の周旋の根本は坂本龍馬、石川誠之介である。此二人が薩長互に相反目して居つては到底幕府の勢力を顛覆して、大政を朝廷に返すなどと云ふことは出来ぬと云ふ論であって、頻りに薩長の間を往来し漸々遊説したのである、それが薩長聯合の源因となった」[111]
  • 山県有朋「徳川氏の末にあたり薩長相疑う。土州名士坂本龍馬、以為らく、これ国家の利にあらざるなりと。すなわち二藩連合の説を建てて、これを薩藩の西郷吉之助に謀る」
  • 三吉慎蔵「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」[112]
  • 伊藤九三「顔に七陽の星が降っている人」
  • 小田村素太郎「私の旅館に龍馬が来て、貴様に願いたいが、私はこういう考えを持っているからということであった。それが薩長媾和の開始であった」[113]
  • 大山巌「諸藩有志の士東奔西走、王事に鞅掌す就中、坂本龍馬、中岡慎太郎の二君は最も大義を明にして国勢を挽回せんことを謀り、我薩摩諸先輩と交際殊に浅からさりし。想うに大政維新の基する所に君が長藩諸老と我薩藩諸老先輩との間に周旋を尽し其疑団を氷解し二藩協同国事に努むるも至らしめたるの労に因らずんばあらず」[114]
  • 井上良馨「その風貌と云えば、自分は坂本が伏見で避難の時は、遭難の場所より京都の薩摩藩邸まで坂本を護送したる一人であった。自分が高知へ行きたる時は、坂本と同船であったゆえによく覚えて居るが、丈高く、黙々多く語らず、しかもなんとなく人に敬慕されるようなところがあって、まあちょっと島村速雄に似た男であったよ」
  • 大浦兼武「坂本氏の如き誠忠の士、常に我が邦を冥護するにあらざるを知らんや(京都東山の贈正四位、坂本龍馬君忠魂碑)
  • 吉井幸蔵「ピストルは、その時代のもとしてはかなり新式のものらしく、それにピストルの方は釣りとは比較にならない位うまかった」(新婚旅行時)[115]
  • 横井小楠「坂本君、君は考え一つ違えば乱臣賊子になる恐れがある。ご注意あれ」
  • 由利公正「(龍馬の歌声は)其の声調が頗る妙であった」
  • 関義臣
    • 「坂本は単に志士論客をもって見るべき人物ではない。また頗る経済的手腕に富み、百方金策に従事し、資本を募集して汽船帆船を買い求め、航海術を実地に演習のかたわら、他の商人の荷物を運搬し、その資金によって、ほぼ同志の生活費を産出することが出来た。全く龍馬は才物である」[116]
    • 「龍馬の風采は躯幹五に達し、デップリと肥って筋肉逞しく、顔色鉄の如く、額広く、始終衣服の裾をダラリと開けて胸を露して居た。一説に、母親が解任中、黒猫を愛していた所から、それにあやかったのであろう。背中にうじゃうじゃ毛が生えて居たので、どんな暑い日でも、肌を脱いだことが無い。人と共に入浴もしない。一切人に背は見せなかったというが、わしもそこまでは知らぬ。何しろ顔に黒子が多く、眼光爛々として人を射、随分恐い顔つきじゃった。平生は極めて無口じゃが、真に卓励風発の概があった。その部下を御すること頗る厳正で、同志中に、人の妻を犯したものがあれば、必ず割腹させる。水夫頭の三吉なるものが暴行を働いた時など、彼は直ちに斬って捨てた。その威信はあたかも大諸侯の如き観があった。そうかと思うと隊士などを率いて玉川、花月などへ登楼し、平生の無口に似合わず、盛んに流行歌など唄う。(中略)龍馬は顔に似合わぬ、朗々、玉を転ばすような可愛い声で『障子開ければ、紅葉の座敷…』と、例のヨイショ節を能く唄った。よさこい節はその本場だけに却々、旨いもんじゃった。(中略)龍馬は小事に齷齪せず、一切辺幅を飾らず、人との交際は頗る温厚、厭味と云うもの一点もなく、婦人も馴れ、童子と親しむ。相手の話を黙って聞き『否』とも『応』とも何とも言わず、散々人に饒舌らして置いて、後に『さて拙者の説は』と諄々と説き出し、縷々数百千言、時々滑稽を交え、自ら呵々として大笑する。誠に天真の愛嬌であった。国を出づる時に父母より訓戒の辞を書して与えられたのを丁寧に紙に包み、上に『守』の一字を書き加え、袋に入れて常に懐中にしたなどは豪宕にして、而も赤子の如く愛すべき所があった」[117]
  • 下山尚 氏、状貌雄偉、眉間に黒子ある。風采閑雅、音調晴朗、一見凡夫に非るを知る」[118]
  • 住谷寅之介
    • 「龍馬誠実可也の人物、併せて撃剣家、事情迂闊、何も知らずとぞ」(龍馬江戸修行後)
    • 「頗る可愛人物也」
  • 尾崎三良
    • 「其頃坂本等の評判が高くなり、其頃散じ紙の新聞様のものを時々発行することがある。それを見ると、今度坂本竜馬が海援隊を壮士三百人を連れて上つたと書いてある。実際我々瘠士が僅か五、六人であると大いに笑ひたり」[120]
    • 「あの人は経済の方に眼を着けておった人」
  • 大隈重信「伊藤(博文)に負けた事など問題ではないが、阪本は偉かった。維新の志士等のうちで偉いと思う者は大していなかったが阪本だけには頭が下がった」[121]
  • 陸奥宗光
    • 「龍馬あらば、今の薩長人など青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」
    • 「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を誘説、感得するの能に富める、同時の人、よく彼の右に出るものあらざりき。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ。(中略)薩長二藩の間を聯合せしめ、土佐を以て之に加わり、三角同盟を作らんとしたるは、坂本の策略にして、彼は維新史中の魯粛よりも、更らに多くの事を為さんとしたるもの也。彼の魯粛は情実、行がゞり、個人的思想を打破して、呉蜀の二帝を同盟せしめたるに止る。坂本に至りては、一方に於ては薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて、幕府に抗対する一大勢力を起こさんとすると同時に、直ちに幕府の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸侯を率いて朝延に朝し、事実に於て太政大臣たらしめ、名に於て諸侯を平等の臣属たらしめ、以て無血の革命を遂げんと企てぬ」[122]
  • 徳富一敬「坂本は白の琉球絣の単衣に鍔細の大小を差し、色の真っ黒い大男で至ってゆったりと物を言う人であった」[123]
  • 吉田健蔵「撃剣家坂本氏」
  • 富田鉄之助「先生(勝海舟)に度々あって話したものは坂本だけだった。薩長連合案などは先生の説だったろうな」
  • 時田少輔
    • 「龍馬は東西奔走にて、薩の意を長に、長の意を薩に告く、遂に御取結に相成」[124]
    • 「龍馬こと先生のお世話に相成り候義もこれある由申し居り候」(薩長同盟について。時田少輔の木戸寛治宛書簡)
  • 間市太郎「終に薩長合体の基本を開く人なり」[125]
  • 長井長義
    • 「僕は土州脱走人有名有志之輩、人を不殺無罪之者を御引返しに相成、かつ他藩たりとも脱藩人を養い申すべくつもりにて、諸方の脱藩人を餌付け、我者になし候策、相見え申しそ候。山師、おそろべし、おそろべし」
    • 「(いろは丸の)船将は坂本龍馬という脱藩人なれども、かねて高名なる議論にて長薩の間に徘徊し、しかし二君には仕えず、ただ皇国のためと唱え、周旋おり申し候の為めなら何時でも一命を捨てる」[126]
  • 高柳楠之助「彼の才谷梅太郎は討幕論主唱の魁なる坂本龍馬にして、応答言論は存外正直穏当の如くなれども、中々大胆不適の人物」[127]
  • 日原素平「坂本先生は真に気柔かに、夫人のみならず何人にも親切であった」
  • 広瀬丹吉「坂本先生はまことに天衣無縫で無頓着の人でありました。ボーと大きなことを言うかと思うと小さいことにも存外気が届いておった」
  • 高木三郎「坂本は大きな男で背中にアザがあって毛が生えてね。はあ、いっしょに湯などにも這入りましたから、ヨク知ってます。坂本は柔術を知らないものですから、先生(勝海舟)が小さくて胸の所へ、こう小さくくっついた工合は、まあ鶴がタカにちょっと止まったようで、それは見物で未だに忘れられません。坂本は文字がありません」
  • 三宅謙四郎「健海翁の妻曰く、坂本龍馬さんはサイサイ使いなどに行きてよく見覚えたり。姿勢あしく肩を斜に傾けタホウ(撓むこと)で、行く様に見えたり」[128]
  • 岡上太吉「いろんなところからまとまった金が届いてくると、そりゃ使え、とばかり、皆の前にサッと、ぜんぶ出すもんじゃから、皆が龍馬を好いてのう」(長崎にいたころ)[129]
  • 山川須磨「龍馬って、嫌な男でしたよ」
  • 信田歌之助「勝の手紙には坂本は剣術は中々つかえる、組打も上手だと書いてありましたが、さて道場に通して見ると坂本は大きな男でした。私は五尺二寸、彼の男は五尺九寸で胴も太い。立ち上がると私の口が龍馬の乳房の辺に当たるのです。双方とも若い血気の盛です。しっかりやりましょうと取組んで見ると組打は中々上手だ。(中略)実に偉い元気の男でありました」
  • 黒川秀波「土藩坂本龍馬と申者、兼ねて有名家之由、闇殺に逢候由」[130]
  • 新谷道太郎「書物はあまり読まぬ方であるが、知恵は非常に鋭い人物である」[131]
  • 結城礼一郎「志士と言うより寧ろ策士と言った方の質で、慶喜に大政返上を決意させたのも表面は後藤象二郎と言う事になっているが、その裏には坂本が居た」
  • 中井庄五郎「僕は坂本氏の為めなら何時でも一命を捨てる」
  • 殿井力(寺田屋お登勢長女)
    • 「べつだん人目をはばかるふうもなく現れた坂本さんを見て、険しい顔のお武家が多い昨今『ずいぶんのんきそうなお方だなあ』とみんなして拍子抜けいたしました。それに美男というわけでもないのに、お洒落っぽいところがなんとなくおかしゅうございました。(中略)坂本さんときたら絹のお着物に黒羽二重の羽織、袴はいつも仙台平。時には大胆に玉虫色の袴などをお履きになって、一見おそろしくニヤけた風でございましたが、胸がはだけてだらしなくお召しになっているので、せっかくのお洒落が台無し。後のことですが中岡慎太郎さん(この方はまたちっとも構わぬお人でした)が『坂本はなんであんなにめかすのか。武士にはめずらしい男じゃ』と、お首をふりふり何度も不思議がっていらっしゃいました。まず娘の私たちが坂本さんになついてしまいました。(中略)坂本さんは昼と夜ととりちがえたようなお暮らしぶりで、昼間はぐっすり寝込んで夜になりますとどこかへ出かけて行かれる、そんな日がしばらく続いたかと思うと、突然何ヶ月もお留守。毎日毎日、判で押したように規則正しく暮らしております私たちには、まったくわけのわからぬ風来坊のようなお方でした。でも、いつしか私たちは坂本さんのお帰りを心待ちにするようになっておりました。そしてその気持ちは母も同じようでございました。母は坂本さんに対して、ずっと年上の姉か母親の様な態度で接しておりました。でも、坂本さんが御逗留のとき、いつもと変わらず忙しく立ち動きながらも、母の気持ちはいつも二階にあったようです」
    • 「『瑞夢』という新体詩が発表されました。そこであの坂本さんが『死んで護国の鬼となる』と歌われていらっしゃいます。生前のずぼらでのんき坊主の坂本さんを知る者には『護国の鬼』となられた坂本さんを想像しにくうはございますが、もしかしたら坂本さんは実はあのころから私ども女子供にはわからないくらいお偉い方だったのかもしれないと、弟妹たちと語り合ったものでございます」
    • 「坂本さんは色が黒く眼が光っていてずいぶん恐いお顔でしたが、笑うととてもあいきょうがおありでした。母の目をぬすんでは、妹たちをひきつれて私は坂本さんのお部屋におしかけましたものですが、坂本さんは『よく来た、いいものを見せてやろう』と行季からオモチャのような鉄砲をとりだして『これは西洋のピストルというんだ。捕手が来たらこれでおどかしてやるきに』とニコニコ笑われました。ある雨降りの夜など、私たちをずらりと前に並べて、みぶりてぶりよろしく怪談をはじめられるのです。(中略)ただでさえ恐い顔をいっそう恐くして両手を前にたれ『お化け』と中腰になる、実に凄い。私たちはなかば本気で『キャッキャッ』と叫びます。そうするときまって母が階段をかけ上がってきて、『騒いではいけまへん、なんべんも言うておりますやろ。坂本はんも気いつけておくれやす』と説教を始めますが、『なあに構うものか、知れたら知れたときのことさ』と取りあわない坂本さんを母がもうムキになって注意するそれは楽しい光景でございました。父伊助とは作ることのできなかった家族の団欒のようなものが、そこにはたしかにございました。この先ずっと父がすわる場所に坂本さんがいてくれたらと、娘心に願ったものでしたが、もしかしたらそれは母の願いであったかもしれません」
  • 岩井徳「坂本さんは本当に男らしい方でした。好きだったかどうか、オホホホ、いつも詩を吟じながらお帰りになりました」
  • 岡本常之助妻女「いつも無言のままでぶらりと入ってきて、用談が終わると無言で帰って行く。一言の会釈もないし、時には憎らしく見えた」
  • 安田たまき「龍馬さんは六尺豊かな大男で優男のように世情では伝えられていますが、背丈は中位で色も黒く、決してトント(美少年)の方ではありませんでした。髪は当時の若い侍の間に流行していた結い方とは違って、たしか総髪で、それが激しい撃剣修行のため縮れ上がっていました。刀はいつも短いのを、落し差しにしていましてちょっと見には差しているやら、いないやら判らぬ位で、肩も撫で肩で、左肩が少し上がっていました。当時の若者の気風とは何処か違う所があってエラたがらず、威張らず、穏和しい人で、それでいて見識の高い人でした。龍馬さんが京都で殺されてから思い出したことですが或日のこと、道場から帰ったわたしの兄が母に向かって『きょう初めて見たが龍馬の左腕には五寸廻りもある大きなアザがある』と語ったが母はこれを聞くと『可愛そうに龍馬さんもそれでは剣難の相がある』と言って、その後母は非常にその事を心配していました果して龍馬さんは人手に倒れました。(中略)銅像の写真を見ましたが顔の工合といい、眉や刀の差し工合といい本人そっくりです」[132]
  • (近江屋養女)すみ「慶応三年十一月十五日でした。もう三日もあれば、殿様が大坂から京都へお着きになる。殿様がお着きになれば、拝謁が叶うて再び帰参ができ、土佐の藩邸にお引き取られになるわけで、長々厄介になった。マア喜んでくれ、わしも屋敷へ帰れるがと、私どもにもお話がございましたが、ちょうどその日に殺されたので、いかにもお気の毒でたまりません。品行はいたって正しい方で、中岡慎太郎さんなぞが来られて、おい才谷、今夜は祇園へ飲みに行こうじゃないかと誘いましても、イヤ少し調べ物があるからよそうと、二階へ閉じこもってばかりいました」
  • 千葉佐那「土佐の坂本さんが私の家に入門してきたのは嘉永六年四月で、坂本さんは十九歳、私は十六歳の乙女でした。坂本さんは翌年六月には帰国し、安政三年八月にふたたび私の道場に参り、修行に打ち込んでおりました。さらに一年滞在延長の許可を得たとかで、引き続いて道場に滞在し、父は坂本さんを塾頭に任じ、翌五年一月には北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に私たち三姉妹の名を書き込むよう頼んでおりました。父は『例のないことだ』と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み、坂本さんに与えました。坂本さんは二十四歳、私は二十一歳となり、坂本さんは入門したときからずいぶん大人っぽくなり、たくましい青年になっておりました。私も二十一歳ぽつぽつ縁談の話もありましたが、私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし父も『坂本ならば』と高知の坂本家に手紙を出したようでした。(中略)私は心を定めていい縁談をも断り、ただひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応三年十二月、三十一歳になっていた私は坂本さんが十一月十五日京都で暗殺されたことを知らされました」
  • 楢崎龍
    • 「(龍馬伝の挿絵を見て)この顔は大分似て居ます。頬も、も少し痩せて目は少し角が立って居ました。眉の上には大きな痣があって、その外にも黒子がポツポツあるので写真は綺麗に撮れんのですよ。背にも黒毛が一杯生えて居まして、何時も石鹸で洗うのでした。長州の伊藤助太夫の家内が坂本さんは、ふだんきたない風をして居った顔付も恐ろしい様なんだったが、此間は顔も綺麗に肥え大変立派になって入らっしゃった。きっと死花が咲いたのでしょう、間もなく没くなられたと云いました。これはのちの話です」
    • 「龍馬は、それはそれは妙な男でした。丸で人さんとは一風違って居たのです。少しでも間違った事はどこまでも本を糺さねば承知せず、明白にあやまりさえすれば直にゆるして呉れまして、此の後は斯く斯くせねばならぬぞと、丁寧に教えて呉れました。衣服なども余り綺麗にすると機嫌が悪いので、自分も垢づいた物ばかり着て居りました。一日縦縞の単物をきて出て、戻りには白飛白の立派なのを着て来ましたから、誰れのと問うたら、己れの単衣を誰か取って行ったから、おれは西郷から此の衣物を貰って来たと云いました」
    • 「龍馬の酒量は量り兼ねる」
    • 「龍馬は詩を作らなかったのです」
    • 「坂本はハキハキしたことが好きで、私がどんなことをしたって決して叱るようなことはなかったのです」
    • 「龍馬・中岡が河原町で殺されたと聞き、西郷は怒髪天を衝くの形相凄まじく、後藤を捕えて『おい後藤、貴様が苦情を言わずに土佐屋敷へ入れて置いたら、こむな事にならないのだ。全体土佐の奴等は薄情でいかん』と怒鳴りつけられて後藤は苦い顔をし『いや、苦情を云った訳ではない。実はそこにその色々』、『何が色々だ。面白くも無い、如何だ。貴様も片腕を無くして落胆したろう。土佐、薩摩を尋ねてもほかに、あの位の人物は無いわ。ええ惜しい事をした』と流石の西郷も悔し泣きに泣いたそうです」
  • 今井信郎
    • 「策士で海援隊を率いて居た。どうして中々きれたものです。しかし私は坂本なんと云う奴は幕府のためにもならねば、朝廷の御ためにもなるものではない。只事を好んで京都を騒がせる悪漢ゆえ『是非、斬って仕舞はねばならぬ』とは思いましたが、向うも大勢だから、此方も同志をつのろうと云うので、よくよく相談なぞ致しました。さて何れが坂本で何処に居るのか少しも解りませんので(中略)しかし幸いにも不図したことから鮹薬師に居る才谷と云うのが坂本だと云うことを確かめましたから、いよいよ殺って仕舞うことにきめました」[133]
    • 「土佐は恐るるに足らぬが一人の坂本が恐ろしかりき」







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