八甲田雪中行軍遭難事件
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原因
原因は諸説あるが、決定的なものは特定されていない。唱えられている説を列挙する。
低体温症
低体温症にかかっていることを視野に入れず、指揮官や将校の判断ミス、その人物の資質を批判するケースは多い。
判断力の欠如、思考停止、錯乱などは典型的な低体温症の症状である。神成大尉の「天は我らを見捨てたらしい」という言動は低体温症に起因する典型的な例ともいえる。数日間に及ぶ不眠不休、食事もとれず、猛吹雪で氷点下の雪山を連日彷徨したことにより、全員が例外なく低体温症にかかっていたと思われる。[41]
生存者の小原忠三郎伍長は、行軍中に幻覚幻聴があったことを証言している。幻覚幻聴は重度の低体温症で現れる症状である。
気象条件
行軍が行われた時は典型的な西高東低の気圧配置で、未曾有のシベリア寒気団が日本列島を覆っており、各地で日本の観測史上における最低気温を記録していた[注釈 11]。青森は例年より8℃から10℃程低く、青森測候所の記録では1月24日の最低気温が零下12.3℃、最高気温は同8℃、最大風速14.3m/秒であり、山間部の気象条件はそれらをさらに下回るものであった[3]。行軍隊の遭難した山中の気温は、観測係であった看護兵が記録も残せず死亡したため定かでないが、『遭難始末』は零下20℃以下だったと推測している[42]。
装備
行軍時の将兵の装備は、特務曹長(准士官)以上が「毛糸の外套1着」「毛糸の軍帽」「ネル生地の冬軍服」「軍手1双」「長脚型軍靴」「長靴型雪沓」、下士卒が「毛糸の外套2着重ね着」「フェルト地の普通軍帽」「小倉生地の普通軍服」「軍手1双」「短脚型軍靴」と、現代と比較すれば冬山登山の防寒に対応しているとは言い難い装備であった。とくに下士兵卒の防寒装備に至っては、毛糸の外套2着を渡されただけである。
しかしながら、「ネル生地」、「小倉生地」、毛糸などのウールやラシャを超える生地は当時存在していない。装備自体の問題ではなく、濡れたら交換するなどの運用方法に問題があった。
倉石大尉はゴム靴を持っていたことが結果として凍傷を防いだと言われるが、これは正月に東京に行った際にたまたま土産物として買っていたものであった。当時の日本ではゴム靴はハイカラな靴(いわゆるファッションブーツ)として扱われていたにすぎず、倉石が行軍で履いていたのは単なる偶然である。
指揮系統の混乱
映画「八甲田山」では三國連太郎演じる山口少佐が無謀な上司として描かれ、青森歩兵第5連隊の組織の問題が原因の一つになっていること、また、新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」では、軍首脳部が考え出した寒冷地における人体実験との記述があるが、これらは映画や小説としての演出、創作であり史実とは異なる。
大隊本部が勝手についてきたという話も映画「八甲田山」と新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」の創作部分で、大隊本部が参加するのは通例となっている。
神成大尉は雪中行軍を実施する演習中隊長であり、実質的な指揮官は大隊長の山口少佐だった。[43] しかしながら、神成との間に意思決定の不統一もあったと思われる。
極端な情報不足
神成大尉が雪中行軍隊の中隊長を任されることになったのは、行軍実施の直前(約3週間前)である。それまでの担当者は夫人出産の立会いのため、任を解かれる形となった。そのため、実際の雪中行軍に対して神成は何の予備知識も持たぬまま準備作業に入った。準備としては、予行演習の日帰り行軍を小峠まで新兵による小隊編成で行ったのみで、今回の雪中行軍参加者は誰一人参加していない。その行軍自体が晴天下で行われたこともあり、結果として冬山登山や雪中行動の基本的リスクの抽出が行われなかったことになる。なお、神成に関しては、少なくとも将校になってから、雪中行軍に参加したとの記録はなく、参加した将校の半分は雪国の出身ではない。また兵らが露営地において、凍傷で動けなくなることを恐れ、朝まで待たずに夜中に雪濠を出発したことも大きな原因である。このため部隊は暗夜道に迷い、鳴沢付近を彷徨することとなり、これが多くの兵の体力を奪い大量遭難につながった。
認識不足
雪中行軍参加者のほとんどは岩手県、宮城県など寒冷地の農家の出身者であったが、厳冬期の八甲田における防寒の知識(八甲田の雪は綿雪と呼ばれる乾雪と湿雪の中庸にあたり、岩手や宮城の湿雪とは性質が異なる)は皆無だった。さらに予備行軍が晴天に恵まれ、雪の中の遠足のようであったとの噂も広まり、雪中行軍をトレッキングと同列に考えている者が多かったといわれる。第5連隊では、出発の前日に壮行会が開かれており、深夜まで宴会が行われていたことも、「過酷な行軍」との認識が希薄だったことを窺わせる。長谷川特務曹長は「田代といっても僅かに5里ばかりで、湯に入りに行くつもりで、たった手ぬぐい1本を持っただけだった」と語っている。実際はマッチや蝋燭のほか予備の足袋を持参していた。また、長谷川は凍傷についての知識があり、予備の足袋を手袋代わりに使用し、常に手の摩擦を怠らず、さらに軍銃の革と毛皮の外套の襟を剥がして足に巻き凍傷を防いでいた。後藤惣助一等卒(生還)は“山登り”ということで履物を普段の革製の軍靴から地下足袋に換え、その上に藁沓(わらぐつ)を履いて参加した[44]。生還者の小原伍長の証言によれば、誰も予備の手袋、靴下を用意しておらず、装備が濡れても交換できぬまま凍結がはじまり、体温と体力を奪われていったという。小原も「もしあの時、予備の軍手、軍足の一組でも余計にあれば自分は足や指を失わなかっただろうし、半分の兵士が助かっただろう」と後年証言している。「遭難始末」ほか当時発刊された各種遭難顛末には、行軍前日、大隊長および軍医の命令として、防寒、凍傷の防止、食事等について各小隊長に詳細な注意事項を伝えたとしているが、結果的にはそれが兵卒にまで伝えられなかったか、聞いたものの特段の準備をしなかったものと思われる。
将兵の生還者は全員山間部の出身で、普段はマタギの手伝いや炭焼きに従事している者達だった。彼等は冬山での活動にある程度習熟していたが、凍傷に関する知識はなく、平澤の炭小屋で救出された長谷川特務曹長の談によれば、炭焼小屋で兵卒が凍傷の手をじかに火にかざし、見る間に火傷を負ったが、誰もそれに気がつかず凍傷を悪化させる結果となったため、自らはすぐに火に当たらず、ひたすら手足の摩擦を行ったと証言している。なお、壮年の佐官を含め将校の生存率が高いのは、下士卒のように銃刀を持っていなかったこと(三十年式歩兵銃は銃剣を含めて重量約4.5㎏、将校が所持する軍刀は約2㎏)、行李の運搬に携わらなかったこと、野営中、優先的に焚き火に当たることができたこと、防寒機能に優れた装備(上質の羅紗仕立ての外套や長靴の着用)、携行品も独自の裁量が認められていた(懐炉、フランネルの下着など)が一因と言われている。
第1日目の斥候隊の道迷い、第2日目の佐藤特務曹長が先導して田代温泉に向かった際の道迷い、第3日目の鳴沢での道迷い、これらはリングワンダリングと呼ばれる現象である。人間が視界を失った場合、自身は真っ直ぐに歩いているつもりが、実際は円を描くように進んでしまい、方向方角がわからなくなり遭難へと繋がる。猛吹雪と暴風により視界はゼロに近く、雪壕を出れば確実にリングワンダリングに陥るが、当時はそのような知識はなかった。[45]
階級 | 参加者数 | 生存者数 | 生存率 |
---|---|---|---|
将校・同相当官(軍医) | 11 | 2 | 18.2% |
見習士官 | 2 | 0 | 0% |
准士官 | 4 | 1 | 25% |
下士(看護長含む) | 45 | 4 | 8.9% |
兵卒(看護手含む) | 148 | 4 | 2.7% |
合計 | 210 | 11 | 5.2% |
注釈
- ^ 小説や映画での行軍競争などは創作である。
- ^ 本来の目的地は田代新湯である。映画「八甲田山」では最後の方に村山伍長がロープウェイに乗るシーンがあるが、彼のモデルとなった村松伍長が実際に発見されたのは田代元湯であり、また彼を含めた生還者全員が八甲田山ロープウェイ敷設前に死去している。
- ^ ちなみに2015年現在、青森県県道40号沿いに第1、第2露営地跡の標識があるが、この間は徒歩で約10分ほどの距離である。
- ^ 映画『八甲田山』(1977年)では、神田大尉(北大路欣也)が「天は…天は我々を見放した」と声を下に絞り出しながら発言している。脚本(橋本忍)では「血を吐くような悲痛な声が静かな疎林の中へ響く」と表現されている。
- ^ 『八甲田山死の彷徨』(新田次郎)では「神田大尉は雪を踏みしめながら怒鳴った」と記述。
- ^ 余談:2月12日に興津の遺体が発見された際、従卒の軽石三蔵二等卒の遺体が興津に覆いかぶさるように倒れていたという説があり、現場を写したとされる写真も存在する。これは美談として広く喧伝され、『遭難始末』附録の美談集にも「上官を想い供に凍死す」という見出しで取り上げられた(歩兵第五聯隊 1902b, p. 3)。ところが実際には、興津と軽石の遺体はそれぞれ別の捜索隊が異なる場所で発見しており、興津に覆いかぶさっていたのは軽石ではなく吉田春松一等卒だった。問題の写真も現場で撮影したものではなく、遺体を第8哨所に収容したのちに演出を加えて撮影した写真だったことが判明している(川口 2001, pp. 200–204)。
- ^ のちに倉石は「佐藤は連隊に連絡せんとて行きしまま行方不明」と述べている。
- ^ 『イソップ寓話』の翻訳等で名高い。
- ^ 渡部が校長だったことがある。
- ^ 防衛研究所図書館所蔵。
- ^ 旭川では1月25日零下41.0℃を記録した。帯広では1月26日に同38.2℃を記録し、第2位となった。
- ^ 1月30日付東奥日報号外において、従軍した同紙記者の東海勇三郎が1月28日の行軍中に銃および凍死体を見たと記している。ただし同紙は後に訂正記事を掲載した。
- ^ 映画では案内人に敬礼をする等、一定の敬意を払っていたかのような描写があるが、あくまで映画における演出である。
出典
- ^ 八甲田山雪中行軍遭難事件 遭難の過程と原因 2022, p. 70
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 5.
- ^ a b c d e f g 「八甲田山雪中行軍から学ぶ組織の在り方」 - 青森市HP (PDF) (2015年2月12日時点のアーカイブ)
- ^ 川口 2001, p. 260.
- ^ 川道 2017, p. 76.
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 7–9
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 15
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 9–10
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- ^ 小笠原 1974, pp. 67–77
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 26–27.
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- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 29
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 33.
- ^ 歩兵第五聯隊 1902b, pp. 4–5.
- ^ 「名言巡礼 天は我々を見放した 雪中行軍 絞り出す無念」読売新聞2013年11月3日日曜版。
- ^ 小笠原 1970
- ^ 小笠原 1974, p. 213
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, pp. 38–39
- ^ a b 歩兵第五聯隊 1902, p. 40
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- ^ a b c d e f 佐藤 1902, p. 24-25
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- ^ a b 佐藤 1902, p. 15-17
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- ^ 佐藤 1902, pp. 39–40
- ^ 佐藤 1902, p. 38
- ^ 『樋口雄彦 沼津兵学校資業生成澤知行とその資料 - 沼津市博物館紀要 45 -』沼津市歴史民俗資料館・沼津市明治史料館、3月31日、1-40頁。
- ^ 『成澤良一:『山口少佐、その父と兄と・・・(成澤良作、知行父子の幕末から昭和まで)』ー青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館・内部資料=未刊行ー』青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館 (内部資料=未公刊)、9月30日 2020。
- ^ 明治三十五年凍傷患者治療報告より。[要文献特定詳細情報]
- ^ 川口 2001
- ^ “毒物及び劇物取締法 別表第二”. 総務省. 2019年6月30日閲覧。
- ^ 八甲田山雪中行軍遭難事件 遭難の過程と原因 2022, p. 59-62
- ^ 歩兵第五聯隊 1902, p. 48
- ^ 雪中行軍遭難二つの疑問 2023, p. 54-60
- ^ 「陸奥の吹雪」による。(川口 2001, p. 18)
- ^ 八甲田山雪中行軍遭難事件 遭難の過程と原因 2022, p. 56
- ^ 川道 2017, pp. 84–115.
- ^ a b 苫米地 1930
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- ^ 川口 2014, pp. 153–154
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- ^ 川村邦光「戦死者のゆくえ」に収録された丸山泰明の論文 p139-172(丸山泰明 & 2010-05)
- ^ 伊藤 2018, p. 不明[要ページ番号].
- ^ “八甲田山行軍兵の写真発見 遭難、凍傷手術前の5人”. 日本経済新聞 (2012年7月3日). 2017年8月8日閲覧。
- ^ “「八甲田」生還の報告書”. 読売新聞. (2012年4月12日). オリジナルの2012年4月18日時点におけるアーカイブ。
- ^ 秋元宏宣「銅像茶屋閉店の危機」2019年付5月15日『東奥日報』
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