九州電気軌道1形電車 運用

九州電気軌道1形電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/28 01:02 UTC 版)

運用

北九州線

1911年6月の開通に合わせて登場した1形24両(1 - 24)を皮切りに、一連の北九州線の木製ボギー車は1920年までに計65両が導入された。1929年以降は66形を始めとした半鋼製・全鋼製を有する電車と共に運用に就いたが、1930年代に入ると1形の初期車の車体の老朽化が深刻となり、9両[注釈 2]1935年1937年に廃車となり半鋼製車の200形へ機器を供出した。それに伴い一部車両の車両番号が変更され、1形は10 - 34の35両体制となった。一方、それに先立ち1925年から1927年にかけて1形の一部車両に対して車体の交換が行われた事が確認されている[9][11]

第二次世界大戦中は前述した電動貨車への改造に加え、燈火管制の影響で他形式と共に前照灯に筒が被せられた他、尾灯の代わりに正面窓下へ太い白線が描かれた。車内も床面積を最大限に活用するため、1形の座席の一部が撤去されていた。また戦後初期は茶色の塗料が不足していたため、濃淡青色や黄色、緑色など多彩な塗装を纏った車両が運行された。これらは事情が好転し始めた1948年以降原型に復元され、塗装も元の茶色系統に戻された[11][12]

一方、1948年から1949年にかけては半鋼製の大型ボギー車である500形12両の導入が行われ、木製ボギー車は次第に余剰となっていった。だが同じ頃、他の西鉄が所有する路面電車路線では長年使用されていた2軸車の老朽化が深刻な事態となっており、置き換えに加えて輸送力増強が急務となっていた。そこで、これらの車両は廃車されずに他路線へ転属する事となり、まず1948年に5両が福島線へ移籍した。残された車両は再度改番が実施され15 - 65に整理された。そして前述の北九州線での更新工事を経て、更なる半鋼製電車や連接車の導入に伴い、これら51両は1950年から1953年にかけて5次に渡って福岡市内線に転属し、北九州線から木製電車は姿を消した[12][13][14]

福島線

福島線へ転属した5両(12、13、32、34、39)は、導入に際し全車とも乗降扉の設置、バンパーの形状変更などの車体改造を受け、特に35形39は他の1形と形状を合わせるため窓を1枚増設した一方、車両番号の変更は行われなかった。1949年1月から運用に就いたが、1952年大牟田市内線から転属した半鋼製ボギー車の(200形、北九州線の車両とは異なる)と入れ替わる形で福岡市内線へ再度転属した[12][16]

福岡市内線

福岡市内線 104号 天神交差点 昭和42年
福岡市内線 125号 千鳥橋 昭和42年

福岡市内線は開業時から長らく2軸車が使用されていたが、老朽化の進行および輸送力増強のため戦時中からボギー車への置き換えが行われており、その最終段階として北九州線・福島線で使用されていた一連の木製ボギー車が導入される事となった。この転属に際して、前述の更新工事に加えて車両番号の変更が実施され、形式を問わず同線に導入された順に「101」から番号が付与されていった。1950年から運用が始まり、1954年以降は北九州線・福島線に残存していた全56両(101 - 156)が福岡市内線で使用される事になった[13][14][3][17]。 以降は主力車両として半鋼製ボギー車である501形・551形・561形等と共に活躍したが、1959年に13両が長崎電気軌道へ譲渡され、残された車両についても1960年代の時点で製造から50年が経過し老朽化が進んだ事から1962年8月以降新造車や北九州線、福島線からの転属車などの半鋼製・全鋼製電車へと置き換えられ順次廃車されていった。1963年から翌年にかけて5両(108、124、132、154、155)の機器を流用した300形が登場したものの、機器自体の老朽化が予想以上に進んでいたため、大半の部品は新造品となり、5両で製造は打ち切られ、残った車両は昭和40年代まで使用された。最後の車両は1970年2月に廃車され、西鉄の路面電車から木造電車が消滅した[14][1][3]

26→102について

前述の通り、1形の屋根は安全上や保守面の理由から原形の端部段型から端部丸型への改造が実施されたが、九州電気軌道が他社を吸収合併し西日本鉄道となった1942年の時点で15、26、33の3両は原形が保たれていた。そのうち15と33は貨物電車に改造後、1948年に旅客電車に復元された際に丸型への改造が実施されたが、26についてはこの改造が実施された時期に事故で屋根が破損し休車となっていたため改造を免れた。更に同年にも追突事故を起こし再度屋根が破損したが、会社側も開業当時の姿を唯一保ち続けている車両として26の希少価値を認め、そのままの姿で復旧が行われた。以降も乗降扉の設置、窓周りの改造、福岡市内線への転属に伴う番号の変更(102)などの変化が生じても屋根の形は変わらないまま廃車まで使用された[12][3]


注釈

  1. ^ 開業時の九州電気軌道の社長を務めた松方幸次郎の縁があった事が理由とされている。
  2. ^ 内訳は8、4、16(1935年1月15日廃車)、3、12、18(1930年12月30日廃車)、2、7、13(1937年7月13日廃車)。
  3. ^ ただし(1形25→18→)100形156のみ、分類ミスから旧35形に該当する170形177に改番された[1]

出典

  1. ^ a b c d e f 奈良崎博保 1967b, p. 21.
  2. ^ a b 飯島巌, 谷口良忠 & 荒川好夫 1985, p. 115.
  3. ^ a b c d e f 飯島巌, 谷口良忠 & 荒川好夫 1985, p. 129.
  4. ^ a b c 奈良崎博保 2002, p. 170.
  5. ^ 朝日新聞社「日本の路面電車車両諸元表(旅客車のみ)」 『世界の鉄道 昭和39年版』1963年、176-177頁。doi:10.11501/2456138 
  6. ^ a b c d e 飯島巌, 谷口良忠 & 荒川好夫 1985, p. 112.
  7. ^ a b 飯島巌, 谷口良忠 & 荒川好夫 1985, p. IV.
  8. ^ a b c 160形(元西日本鉄道153号)”. 長崎電気軌道. 2019年12月29日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g 奈良崎博保 1967a, p. 26.
  10. ^ 飯島巌, 谷口良忠 & 荒川好夫 1985, p. 77.
  11. ^ a b c d e 奈良崎博保 1967a, p. 28.
  12. ^ a b c d e 奈良崎博保 1967b, p. 18.
  13. ^ a b c d 奈良崎博保 1967b, p. 19.
  14. ^ a b c d e 奈良崎博保 1967b, p. 20.
  15. ^ 飯島巌, 谷口良忠 & 荒川好夫 1985, p. 76-77.
  16. ^ 飯島巌, 谷口良忠 & 荒川好夫 1985, p. 134,136.
  17. ^ 飯島巌, 谷口良忠 & 荒川好夫 1985, p. 124.
  18. ^ 木下健児 (2019年5月19日). “長崎電気軌道「路面電車の日」記念、明治電車168号を6/7記念運行”. マイナビニュース. リクルート. 2019年12月29日閲覧。
  19. ^ 港町・門司港「海峡ドラマシップ」で歴史に浸る”. LINEトラベルjp. ベンチャーリパブリック (2018年3月24日). 2019年10月10日閲覧。
  20. ^ フロアガイド”. 関門海峡ミュージアム. 2019年12月29日閲覧。


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