シャフリサブス シャフリサブスの概要

シャフリサブス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 19:22 UTC 版)

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シャフリサブス歴史地区
ウズベキスタン
コク・グンバッズ・モスク(ウルグ・ベクの金曜モスク)
英名 Historic Centre of Shakhrisyabz
仏名 Centre historique de Shakhrisyabz
登録区分 文化遺産
登録基準 (3), (4)
登録年 2000年
危機遺産 2016年 -
公式サイト 世界遺産センター(英語)
使用方法表示

2000年に、15世紀ティムール朝時代に建築された建物の現存する地区がユネスコ世界遺産に登録された。

歴史

かつてシャフリサブスは現在のキタブ付近に存在していたが、13世紀から14世紀の間に市域が移動して現在の位置に移った[3]

もともとは「心休まる場所」という意味のケシュキシュ (Kesh) という名前で知られていた町であり、古代のシャフリサブスは、中央アジアの都市の中でも最古の歴史を持つ。アレクサンドロス3世の攻撃を受けたアケメネス朝は、この地で終焉を迎えた。アレクサンドロスは将軍プトレマイオスバクトリア地方のサトラップに任じ、紀元前328年から327年の冬にかけて、アレクサンドロスはシャフリサブスに滞在して妻ロクサネ(ロザンナ、ロクサナ)を娶った。

キシュは中央アジアのイスラム化以前からソグディアナの都市として知られており[4]代の中国の史料に書かれている昭武九姓の1つ史国は、この地に興った都市国家である。玄奘三蔵の『大唐西域記』には羯霜那国(サンスクリット名Kusanaの音訳)の名で登場した[4]。他にKeshの音訳の羯石国、竭石国、可石国、乞史国などとも書かれた[4][5]。イスラム化が進んだ9世紀10世紀に至ってもキシュは中心都市の地位を保つが、サマルカンドブハラの発展に伴って衰退が始まる[4]

現在の町の名であるシャフリサブスの呼称が最初に確認されるのは、1351年チャガタイ・ハン国で鋳造された銀貨である[6]。そして14世紀末、ティムール朝の時代にシャフリサブスは歴史の表舞台に再び現れる[4]

ティムール朝の建国者であるティムールは、1336年4月9日にシャフリサブス近郊の村で誕生した[7]1379年にティムールが征服したホラズム地方の学者、職人たちは家族ごとシャフリサブスに移住させられ[8]1381年にティムールが征服したクルト朝の首都ヘラートの住民と城門がシャフリサブスに移される[9]。シャフリサブスは中央アジアの文化都市に発展し、「クッバトゥル・イリム・ワル・アダブ(学問と道徳のドーム)」の称号が冠せられた[10]

1380年よりアク・サライ宮殿の建築が開始され[11]、ティムール朝のアミール(貴族)や高官たちによって、マドラサ(学院)、僧院、宿泊所、貯水槽が町の内部と周辺地域に建てられた。ティムールはシャフリサブスを自らの故郷と考え、ここに自らのを建設することを計画した[12]。ティムールは建国当初シャフリサブスを首都に定めることを考えたが、立地と冬季の交通の便の悪さのため、サマルカンドを首都に据えた[13]

16世紀にティムール朝に代わってマー・ワラー・アンナフルに成立したブハラ・ハン国シャイバーニー朝)の指導者アブドゥッラーフ2世は、シャフリサブスの大部分を破壊した[14]。伝説によると、アブドゥッラーが町を破壊したのは、シャフリサブスの攻略の際に急な坂道を登る際に、疲労で愛馬が死んだがゆえにその怒りが町に向けられたが、後に彼は、自らの破壊行為に対して、自責の念に駆られたということである。

当初はシャイバーニー王家がシャフリサブスを統治していたが、17世紀末よりシャフリサブスの統治権はウズベクのケネゲス部に移る[5]。ケネゲス部はシャフリサブスとキタブを拠点として同じウズベクのマンギト部と争い、ブハラ・ハン国でマンギト部の政権 が成立した後も自治権闘争を展開した[5]1870年にシャフリサブスはロシア帝国によってロジア保護下のブハラに併合されたが[5]、その理由はツァーリの徴税請負人をシャフリサブスの住民が殺害したかどによる。

ソビエト連邦崩壊後にウズベキスタン共和国が独立すると、ティムールの再評価に伴って、ティムールの故郷としての観光都市化が政府によって進められている[5]

産業

ワイン、陶製品が多く生産されている[14]。また、シャフリサブスには刺繍工場も置かれている[14]


  1. ^ デジタル大辞泉の解説”. コトバンク. 2018年5月13日閲覧。
  2. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、166-167頁
  3. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、168頁
  4. ^ a b c d e 加藤『ティームール朝成立史の研究』、166頁
  5. ^ a b c d e 木村「シャフリサブズ」『中央ユーラシアを知る事典』、240頁
  6. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、167-168頁
  7. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、171頁
  8. ^ a b c 加藤『ティームール朝成立史の研究』、174頁
  9. ^ ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、61-62頁
  10. ^ ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、175頁
  11. ^ a b 加藤『ティームール朝成立史の研究』、174-175頁
  12. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、179-180頁
  13. ^ ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、21頁
  14. ^ a b c d 関『ウズベキスタン シルクロードのオアシス』、88頁
  15. ^ a b c d 関『ウズベキスタン シルクロードのオアシス』、90頁
  16. ^ a b 加藤『ティームール朝成立史の研究』、173頁
  17. ^ 関『ウズベキスタン シルクロードのオアシス』、92頁
  18. ^ 関『ウズベキスタン シルクロードのオアシス』、93頁
  19. ^ a b 関『ウズベキスタン シルクロードのオアシス』、93頁
  20. ^ 加藤『ティームール朝成立史の研究』、172頁
  21. ^ Historic Centre of Shakhrisyabz, Uzbekistan, added to List of World Heritage in Danger


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