カール・ゴッチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/22 07:22 UTC 版)
得意技
獲得タイトル
- アメリカン・レスリング・アライアンス
- AWA世界ヘビー級王座(オハイオ版)[21]
- 1962年9月14日、オハイオ州コロンバスにおいてドン・レオ・ジョナサンより獲得。
- 1964年9月7日、同地においてルー・テーズに奪われ、NWA世界ヘビー級王座へ吸収。
- ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア)
- IWA世界ヘビー級王座[22]
- 1965年8月18日、オーストラリア・メルボルンにおいてスパイロス・アリオンより獲得。
- 1965年8月25日、同地においてアリオンに奪われる。
- この時期、オーストラリアでのゴッチはリングネームをカール・クラウザーに戻している。
- WWA世界タッグ王座[7]
- パートナーは "アイアン" マイク・デビアス。
- 1967年6月30日、カリフォルニア州ロサンゼルスにてペドロ・モラレス&リッキー・ロメロ より獲得。
- 1967年7月29日、同州サンバーナーディーノにてモラレス&ビクター・リベラに奪われる。
コーチとして
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2010年5月) |
- 豊富な知識から様々な練習方法を提案し、やる気を出させる教え方が上手なため、慕っているプロレスラーが多い(ただし、スパーリングは非常に厳しいらしい)。ゴッチの教えは「ゴッチイズム」と呼ばれ、ゴッチの指導を受けたアントニオ猪木が新日本プロレスで「ストロングスタイル」を確立したため、特に新日本プロレス出身のプロレスラーの間では畏敬の念を抱かれている。もっとも、これはアングルの一種でもあり、弟子たちの多くはゴッチを利用して有名になるとゴッチの下を訪れなくなったため、ゴッチがインタビューでかつての弟子たちに苦言を呈したこともある。なお、全日本プロレスの渕正信がゴッチの下を訪れた際にもゴッチは熱心に指導しており、指導するプロレスラーの所属団体についての拘りはないようである。
- 長州力がデビュー戦から使用し続けているサソリ固め(スコーピオン・デスロック)は、ゴッチが伝授したと言われている。
- 藤波辰爾の得意技だったドラゴンスクリュー、ドラゴン・スープレックス(フルネルソン・スープレックス)は、ゴッチが元祖である。
- ゴッチは「12種類のスープレックス」を新日本プロレス期待の若手であった当時の前田日明に伝授している。前田のイギリスへの海外修業の手招きはゴッチの計らい。
- ゴッチは小沢正志のためにモンゴル人のギミックを考案し、「テムジン・モンゴル」と命名したが、小沢がアメリカへ進出する際に「キラー・カーン」と改名したために破門している。その後、ゴッチと小沢が和解したかどうかは不明である。
- メキシコで修業中の佐山聡のイギリス派遣もゴッチが手引し、その際「リッキー・カワシ」というリングネームを授けているが、現地プロモーターが「サミー・リー」にしてしまったため、怒っていたという。
- 第2次UWFブーム当時、ゴッチは週刊ゴングのインタビューで「日本には私のファイトスタイルを忠実に再現しているレスラーが1人だけいる」と発言し、記者から「それは誰ですか?やはり前田(日明)さんですか?」と尋ねられたのに対して、「木戸修だよ」と答えている。この発言からも分かるように、蹴りを多用する前田日明、高田延彦には、「彼らはキック・ボーイになってしまった」とやや冷水を浴びせるところがあった。ただし、ゴッチは来日時に山本小鉄へ見事なソバットを決めたこともあり、キックを嫌う傾向はあるが、完全に否定はしていないという見方もある。また、鈴木みのるがUWF時代にこだわりを持って使用したドロップキックやストンピングを批判していないところから、繋ぎ技、裏技、奇襲として足の裏で蹴ることは否定していないのではないかと思われる。
- なお、木戸修に対するゴッチの思い入れは若手時代からであり、新日本旗揚げシリーズ前の道場での公開練習では、ゴッチは当時22歳であった木戸を専属パートナーとして指名している。
- ゴッチはレスリングをするために筋肉増強剤は有害であると考えており、ケン・シャムロックが筋肉増強剤を使用していると批判している。パンクラスがゴッチの批判を無視してケン・シャムロックを重用したため、ゴッチはパンクラスと決別したと言われている。
- 平直行が立ち聞きした内容によると、ドン・中矢・ニールセンとの試合を控えていた前田日明には頭突きを活かすこと、レスリングの動きを活かしてサイドやバックに入ることなどを助言していた。その話ではゴッチは「ボクサーはクリンチに弱ければタイトルは取れない。ルールで禁止でも、そんなことはやってくるのが当たり前だから」「レスラーだって、パンチを怖がるようじゃ強いレスラーにはなれない。ボクシングができるくらいの心と反射神経がなければ、本物にはなれない」「昔のボクサーとレスラーはよく一緒に練習したものさ」と打撃と組み技の両立を重視する発言を行った[24]。
- ゴッチは1999年からしばらくの間マット・フューリーを指導したことがあり、2000年にトニー・チチーニーがフューリーを批判した時にはチチーニーを非難したが、その後はフューリーを厳しく批判している[† 8]。かつての弟子とのトラブルについて、ゴッチは「魂だけは教えることができないものであり、本人が生まれながらに持っているものである」と述べている。
- グレコ特有のロックアップしてからの展開を基本としていたため、自ら飛び込んでの片足タックルを全く教えなかった。ゴッチの技術体系では現在の総合格闘技に対応できないことは明らかであり、パンクラスがゴッチから訣別した一因ともなっている。
- 前田日明によればゴッチはUWFの選手にタックルの有効性を訴えていたが、選手たちは理解せず見栄えのよいキックばかり練習していたと言う[要出典]。
注釈
- ^ 東京都荒川区の豊国山回向院に墓碑があり、本名はカール・イスターツと刻まれている(G SPIRITS Vol.46)
- ^ 『ゴング格闘技』(日本スポーツ出版社)2007年1月号のインタビューにおいて、ゴッチはベルギーで生まれ、16歳の時に仕事を求めてブリュッセルからドイツへ移り住んだと述べている。また、『週刊プロレス』(ベースボール・マガジン社)2007年8月15日号に掲載された斎藤文彦による追悼寄稿において、ゴッチ自身は「ベルギーのアントワープ生まれ」と話していたことが記されている。
- ^ World Olympians Associationに1924年8月3日生まれのベルギー代表選手として"Karel Istaz"の名が記載されている。Olympic Games MuseumのOfficial Reportでは、"Istaz, K."はグレコローマンおよびフリースタイルレスリングのライトヘビー級に出場している。また、「ゴング格闘技」(日本スポーツ出版社)2007年1月号のインタビューにおいて、ゴッチも同大会への出場を認めている。
- ^ この改名はMWAのプロモーターであったアル・ハフトの意向によるものと言われている(ハフトはかつてヤング・ゴッチというリングネームのプロレスラーであった)。また、試合をする地方によって、「クラウザー」と「ゴッチ」を使い分けていた時期もある。
- ^ "Wrestlingdate.com"のレコードによれば、日本プロレスに来日する以前に既に「カール・クラウザー」や「カロル・クラウザー」を名乗っている。また1953年にドイツで既に「カール・ゴッチ」を名乗っている。(Wrestlingdata.com)
- ^ ロジャースは、巡業先に中傷ビラが撒かれる事件があったり、防衛戦を行う地域が偏っているなどの不満を持たれていた。また、ルー・テーズ、フレッド・ブラッシーも自伝においてロジャースの性格を批判している。
- ^ An Exclusive Interview with Rene Gouletにおいて、レネ・グレイがゴッチとタッグを組んだいきさつを語っている。
- ^ A Letter From Karlにゴッチ自筆の手紙が掲載されている。
出典
- ^ a b c d e f g h i j “Karl Gotch”. Wrestlingdata.com. 2023年11月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g “Karl Gotch”. Cagematch.net. 2023年11月21日閲覧。
- ^ a b c “SPECIALIST: List of Deceased Wrestlers for 2007 with Details (Updated as needed)”. Pro Wrestling News & Analysis. 2023年11月21日閲覧。
- ^ “前田日明と獣神サンダー・ライガー!待望の対談が実現!”. 前田日明チャンネル (2021年4月30日). 2023年1月25日閲覧。
- ^ Scientific Wrestling参照。
- ^ “The AWA matches fought by Karl Gotch in 1961”. Wrestlingdata.com. 2022年5月30日閲覧。
- ^ a b “WWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
- ^ a b “WWWF/WWF/WWE World Tag Team Title”. Wrestling-titles.com. 2022年4月7日閲覧。
- ^ 『プロレスPLAYBACK』東京スポーツ 2017年5月23日(22日発行)付6面
- ^ a b c 『日本プロレス史の目撃者が語る真相! 新間寿の我、未だ戦場に在り!<獅子の巻>』(ダイアプレス、2016年)p20-21
- ^ 『Gスピリッツ Vol.30』P59-60(2014年、辰巳出版、ISBN 4777812669)
- ^ “【猪木さん死去】坂口征二戦“黄金コンビ”初のシングル対決ほか/名勝負ベスト30&番外編”. 日刊スポーツ (2022年10月1日). 2022年12月10日閲覧。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.63』P20(2022年、辰巳出版、ISBN 4777828964)
- ^ a b “Matches: Karl Gotch 1971-1982”. Cagematch.net. 2023年11月21日閲覧。
- ^ 【国際プロレス伝】失意のカール・ゴッチは「国際のリング」で蘇った
- ^ 新日本プロレスオフィシャルWEBサイトの選手名鑑参照。
- ^ Olympic Games Museumの同大会Official Reportに"Istaz"の名は記載されていない。
- ^ 別冊宝島120『プロレスに捧げるバラード』(1990年 宝島社)p.190-191. ISBN 4796691200
- ^ rewens2659 (2017年2月14日). “ルー・テーズVSカール・ゴッチの対戦成績”. Yahoo! JAPAN. 2017年8月14日閲覧。
- ^ “NWA Eastern States Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
- ^ “AWA World Heavyweight Title [Indiana / Ohio]”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
- ^ “IWA World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
- ^ “The WWE matches fought by Karl Gotch in 1972”. Wrestlingdata.com. 2022年4月7日閲覧。
- ^ 平直行『平直行の格闘技のおもちゃ箱』(2006年、福昌堂)pp.109-111. ISBN 4892247979
- ^ “アントニオ猪木ら出席、カール・ゴッチさん納骨式”. 日刊スポーツ. 2023年11月21日閲覧。
固有名詞の分類
- カール・ゴッチのページへのリンク