生没年不詳
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生没年不詳(せいぼつねんふしょう)とは、歴史上の人物の生没年がともに不明であることを示す。
- 1 生没年不詳とは
- 2 生没年不詳の概要
- 3 関連項目
没年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/30 14:20 UTC 版)
高信は没年がはっきりしていない。民間記録である『永禄日記』は、元亀2年(1571年)5月5日に津軽為信の奇襲により石川城で討ち取られたと伝えている。しかし、三戸南部の資料ではこの時には死なずに生き延びて、天正9年(1581年)6月8日に世を去ったとも伝えているのである。また黒石市浅瀬石星田文書にも「石川左工門之介源高信は南部に行きて未だ還らず。城中支うる者なかりしかば為信は戦わずして攻略すること得たり。」「…南部高信が来たりて津軽を総監せしが、留守中為信に攻められ落城したり。」という記述がある。さらに大行院 (弘前市)の元禄15年(1702年)の書上帳に『一 十一面観音堂 寺山館ニ石川大膳天正二年ノ本尊長サ一尺五寸木造石川殿安置仏云』という記述もあるといい、高信の生存を示している。
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没年
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蔡邕の蔵書復元後の消息は『後漢書』に載らないが、『晋書』景献羊皇后伝および羊祜伝には羊衜に嫁いだ蔡邕の娘の記録が残る。この蔡邕の娘が蔡琰か蔡琰の姉妹か言及されていない。陳仲奇は『蔡琰晩年事跡献疑』において『晋書』に記載される蔡邕の娘が蔡琰である可能性を指摘する。その場合の蔡琰の没年は249年だと述べている。一方、清代の『新泰県誌』には、羊祜の母である蔡文姫の妹の蔡貞姫の名が見られる。 また、1992年に中国人民銀行より発行された蔡文姫銀貨には、生没年を「公元約177年-254年」と書かれている。なお、この銀貨は中国傑出歴史人物紀念幣の第9組めの記念硬貨に属し、同組には100元金貨の則天武后、その他5元銀貨の鄭成功・蕭綽・王昭君・花木蘭がある。
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没年
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『本庄家系譜』は柴任が死去したのは宝永7年(1710年)閏8月20日としている。一方『武州伝来記』の柴任死亡日は宝永3年(1706年)丙戌閏8月20日である。双方4年もの隔たりがある。いずれも「閏8月20日」は合致している。当時の暦は太陰太陽暦で、2、3年ごとに閏月を置いた。閏月がある年は1年13箇月で同じ月が二度あり、後のほうを閏何月といった。それだけに生没年の考証には印象の強い月になる。宝永年間の閏月のある年は2年、5年、7年である。その内閏月が8月の年は宝永7年だけである。これにより『本庄家系譜』の宝永7年が正しく、『武州伝来記』の宝永3年は丹治峯均の記憶違いと判断される。柴任三左衛門重矩、号固学道随、享年85。
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没年
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その最期についても諸説ある。『関八州古戦録』、『上野国志』によれば天正5年に大和の柳生谷で亡くなり墓があるとする。ただし柳生には墓でなく芳徳寺に供養塔「柳眼塔」がある。 『武芸流派大事典』では、『橋林寺古文書』及び『西林寺過去帳』によって天正5年と書くが、疑う点も多いとする。まず『西林寺過去帳』には論争があり、没年を天正5年1月16日(1577年)とする『西林寺過去帳』だが、これは寺にある天正5年の開基墓が信綱の墓碑とする説に基づいている。しかし開基墓の解釈には異論があり、嫡男である上泉秀胤の供養碑という説(天正5年1月22日(1577年または天正4年(1576年))に信綱が西林寺を開基し信綱の十三回忌法要を行なったという『武芸流派大事典』所収の口伝に基づく)もある。『定本大和柳生一族』(今村嘉雄、1994年)では、天正5年に信綱が西林寺を開基し秀胤の十三回忌法要を行ったとして、没年を天正5年以後とする。 また気楽流伝書には天正5年4月18日とある。
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没年
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忠綱の没年には諸説ある。『播州島津家略歴』は寛元2年(1244年)2月7日死去とするが、上記「生涯」の項からも明らかなように誤りである。また文永2年(1265年)に成立した『続古今和歌集』所収の三男・忠景の詠歌に親の死を悼む内容のものがあることから、それ以前であるとみる説があるが、『越前島津氏正統家譜』によると「六十四歳卒」とあり、享年に矛盾が生じてくる(文永2年に没したとして最長61歳にしかならない)。そこで、ここでいう親は忠景の母であり、忠綱は文永5年(1268年)頃まで存命していたとする見解もある。また、「小宮系図」に千葉氏一族の武石胤辰が文永5年に忠綱を頼って日向国志布志郷(鹿児島県志布志市)に居住したという記録もあり、忠綱の存命が裏付けられる。なお、『越前島津家文書』により、忠綱の正室越後局も弘安2年(1279年)の時点で生存していたことが確認できるため、この見解によると忠行と忠景が異母兄弟であった可能性も推測できるという。
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没年
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