近代の労働と貨幣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:21 UTC 版)
明治時代 工場での報酬は江戸時代の慣習を引き継ぎ、奉公人制度を残している工場もあった。紡績工場には年期奉公の職人と賃金を受け取る職人が併存していた。明治30年代の時点でも賃金の時期は工場や地域によって大きく異なり、日払い、週払い、月払い、2週間に1回、月に1回などがあった。明治維新によって武士は秩禄処分で収入を失い、雇用労働者として生活が必要になる。明治政府は旧武士に士族授産として生活の手段を与えた。大阪紡績の成功によって株式会社が増え、紡績、鉄道、電力などの株式会社が設立される。会社の賃金制度は、重役は年俸、職員は月俸、職工は日給または出来高給に大まかに分かれていた。職員は固定給だが職工はより複雑だった。正規職員以外に臨時職員(非正規職員)がおり、職工にも臨時工がいた。従業員の区分と賃金制度は複雑であり、日給が月給よりも上の場合もあった。工場や鉱山での労働問題をきっかけに労働者保護の論議が起き、1911年(明治44年)に工場法が成立し、のちの労働基準法のもととなった。 賞与の起源については諸説ある。中元や歳末の給与の代わりに支払われていたのが起源とする説、または勤続奨励として動機づけのために賞与を与えたのが起源という説などがある。明治30年代には賞与の普及が進み、会社銀行では毎半期や年末に重役、職員、職工に賞与が支払われていた記録がある。 第一次大戦期・第二次大戦期 日本初の家計調査は高野岩三郎が行い、調査の結果をもとに友愛会が日本初の労働組合による生活賃金の要求をした。第一次世界大戦は、船成金のような資産家を生むが、他方でインフレーションによって賃金労働者の生活が苦しくなり、賃上げ争議や米騒動が多発した。賃金制度の決定においては科学的管理法が影響を与えた。第一次大戦中には、現在のコンサルタントにあたる能率技師が登場し、日本能率協会が設立された。基本給という言葉は日中戦争中の賃金臨時措置令に初登場し、当時は固定給を意味していた。第二次世界大戦によって物価上昇が起きると、政府は価格等統制令と賃金統制令を出した。人手不足による賃金高騰への対策で、最高賃金とともに最低賃金を設定した。 第二次大戦中には、賃金統制の主管官庁である厚生省は工員月給制度を推進した。工員月給制度は完全月給制であり、欠勤・遅刻・早退などによる控除が行われずに定額が支払われる内容だった。これは日本全体を疑似家族とみなし、労働によって国家=天皇を中心とする家族に奉仕するという皇国史観にもとづいていた。基本給をベースとした年功賃金という制度は、第二次大戦後となる。
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