資本主義と資本経済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 15:10 UTC 版)
日本では、大学教養でマルクス主義が暗黙知的に流布しているため、「資本主義」が経済概念一般とされ、「資本経済」の本来のあり方が見失われているが、マルクスの資本論において「資本主義Kapitalismus/capitalism」なる用語は数カ所しかなく、「資本家的kapitalistisch/capitalistic」生産=蓄積様式が本来の概念である。さらにジャック・ランシエールは、「マルクスが「資本—労働」関係を、資本論において「資本家—労働者」の主体人格関係における搾取関係へ転じてしまった、概念空間は全く別物であると批判している。資本主義=資本家=搾取支配という無意識の構図が、「資本家は悪だ」だけにとどまらずに「資本は悪だ」とされる認識一般をまきおこしている。資本主義論は、資本家的生産様式・資本家的社会構成体という歴史上の規定のもとで、「他人労働の領有に基づく他人労働の継続的無償領有」、つまり資本家による剰余価値の領有が交換無しに行われるのを「資本の本性」だとするゆえ、搾取関係だとされてしまう。それは「資本ー労働」関係に限定された資本であるにすぎず、賃労働に相対した次元での「資本」を指している「労働と資本の分離」による「所有に基づく所有」のそれだけから見られたもので、それだけが「資本」ではない。資本は生産と流通を統一したり、また労働力能の形成そのものであったり、多様な動きと関係をなす。資本経済は、資本それ自体の多様な動きと関係を総体的に実際的に見る論理である。資本主義概念は社会主義と対立させられているイデオロギー概念でしかない、また商品の価値関係は資本の関係ではない。商品生産は社会主義国でもなされるのに、その商品産業経済が資本主義と同一視されてしまう。高度産業社会の発展と消費社会の興隆によって、経済そのもの再考が多様になされたが、カール・ポランニーの経済文明史からの市場経済社会の捉え直しから、経済人類学による経済活動の見直しは、商品経済だけが経済ではないことを実証していき、ボードリヤールによる消費社会をふまえた記号的経済論、ブルデューの文化資本と経済資本の逆立関係の社会学的考察、ミシェル・フーコーの新自由主義論、イヴァン・イリイチの産業文明批判−—資本主義も社会主義も同じ産業的生産様式を追求しているだけだというイリイチは、学校化・医療化・輸送化といった産業的サービス制度が、商品関係に覆われて無限成長・無限消費の神話にとらわれていると指摘−—など、経済学外での多様な考察がなされて、かつ「ホモ・エコノミクス」自体の見直しがなされたことによって、「資本主義」概念世界とは区別される「資本経済」のあり方が、さらに商品経済とは異なるという見解になっていく。これらは、アダム・スミスをふまえた人的資本論が、経済の生産性に大きな意味をもたらしているという高度資本主義の見直しから、ガルブレイスの産業国家論などをへて、経済を社会的に把捉する系譜として、「生産者の生産」(ブルデュー)を軸にして多様化していったが、消費社会論から物質経済の物質文化そのものを見直す考察ともなっていく。さらに、サービス経済の発展が、生産物自体を生み出さない経済活動の重要さとして認識されていく。環境経済の見直しもそこへ拍車をかけた。つまり、資本家が賃労働者を搾取・支配する「資本主義」という否定的見方も、社会主義は崩壊したが資本主義は残っているという肯定的見方も、経済世界への批判的検証には不十分である、経済とは何か、生産・消費とは何か、資本とは何かといった全体の研究・検証が、世界的に人類学、社会学、教育学、などの領域でなされている。イデオロギー的観点ではなく、経済そのものを経済の社会的機能とともに人・環境のあり方を含め、現実に即して把握するのが資本経済の視点である。資本経済は、資本の動き・働きそれ自体を把捉することで、資本が人や組織や場所などの種々の様態を可能にしうることを肯定的に認識・考察し、同時に資本への批判的認識(資本間格差や貨幣が貨幣を産む「利子産み資本」など)も検証する。
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