耳のピアス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 22:27 UTC 版)
耳へのピアスは、インド、エジプトなどの古代文明に、人類が装飾品で身体を飾る際に耳への装飾も行ったことに始まる。当時の金工技術は高度で、環状の金属製の耳飾りが一般的であった。この耳飾りは耳に開けた穴に取り付けられ、ピアスの原型となった。紀元前3300年のミイラであるアイスマンの耳にもピアスの跡がある。 中国や日本列島においてはそれより早い興隆窪文化や縄文時代早期末から中期(紀元前5500年から紀元前3000年頃まで)におけるピアスが発掘されている(魔除け的に装着されていたと考えられている)。主として石製・骨製であり、円の一部を欠いた形で「玦状(けつじょう)耳飾り」と呼ばれる。縄文時代中期頃より「耳栓」(じせん)と呼ばれる粘土製のピアスも作られるようになった。ピアスをつけているとされる土偶も出土している。耳部分に穴の開いている土偶も存在するが、これについては耳の穴とも、ピアスホールとも言われる。縄文時代晩期終末(紀元前2500年頃)から弥生時代にはピアスはほとんど出土しない。 古墳時代中期後半以降になると、金属製装身具とその製作技術の導入により耳飾りの文化が復活し、「耳環」と呼ばれる金属製ピアスが出土するようになる。この時代に作られた埴輪の表現から、男女を問わずピアスをしていたことが分かっている。千葉県芝山古墳群の殿塚古墳から出土した人物埴輪の両耳には上下にそれぞれ2つの穴が開いており、少なくとも下の1つはピアスホールであったと考えられるが、この当時の耳環は、環の1か所にある隙間を耳たぶに噛ませて穴を開けずに装着するいわゆる「clip-on」タイプであろうとする意見もある。 飛鳥時代を最後に、明治時代まで日本本土ではピアスは姿を消す。大宝律令(701年)によって身分による衣服の違いが明確になったためにピアスなどの装飾品で身分を示す必要がなくなったからとも、「身体髪皮膚之を父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり。」という儒教の孝経の影響だともいわれる。 アイヌ民族は江戸時代末期まで「ニンカリ」と呼ばれる真鍮製のピアスを男女問わず付けていた。 連合は2019年(令和元年)11月15日、職場での身だしなみのルールに関し働いている男女1000人が回答したアンケートを発表。ルールがあると回答したのは571人。男性のピアス不可は188人。ルールに違反した場合、処分があるのは111人。始末書提出や解雇、契約打ち切りもあった。
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