羅貫中は作者なのか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)
「三国志演義の成立史」の記事における「羅貫中は作者なのか」の解説
今日、一般的に『演義』の作者とされるのは羅貫中という人物である。現存する各種刊本に「羅貫中編」と記されるものが多いことが理由である。「編」という字からも分かる通り、『演義』を一から著した作者というより、荒削りな『平話』の物語を史書等を用いてストーリーを補正し、黄巾の乱から三国の統一につながる一連の大河小説として完成させた、最終編者としての役割が想定されている。ただし、本当に最終編集が羅貫中なのかどうか、確証は全くない。 というのも羅貫中自体は、経歴がほとんど不詳な人物であり、元末明初(14世紀半ば)に生きた人ということ以外、確かなことは全く分からない為である。清代の俗説では、元末の軍閥張士誠に仕えたとされ、『演義』の赤壁の戦いの描写は、朱元璋と陳友諒との間で行われた鄱陽湖の戦いをモデルに書かれたと言われることもあるが、何ら証拠はない。 賈仲名の『録鬼簿続編』(雑劇作者の列伝)には、羅貫中は太原(現山西省)の人で「湖海散人」と称していたこと、楽府や戯曲を書いていたこと、賈仲名は至正甲辰(1364年)に最後に会ったことが記されている。作品としては「風雲会」「連環諫」「蜚虎子」等があったらしいが、「風雲会」(宋太祖の出世物語)以外は散佚している。ここで重要なのは賈仲名が、羅貫中の作品として『三国志演義』等の小説を一切記していないことである。最も著名な小説を代表作として挙げていないというのは考えづらく、『録鬼簿続編』が言う「羅貫中」が果たして『演義』の編者とされる人物と同一なのかは疑わしい。同姓同名の別人という可能性もある。 賈仲名が羅貫中の出身地として記す太原は、当時文化が高度に発達した地域で、雑劇や語り物の作者を輩出していた。ただし羅貫中の出身を太原以外とする史料もある。たとえば嘉靖本の序文には「東原羅本、貫中」(姓名が羅本で、字が貫中)とある。東原は東平(山東省)の古名である。元末の朱子学者趙偕の弟子に羅本という人物がおり、同じく趙偕の影響下にあった陳文昭の名が『水滸伝』(これも羅貫中の作とする俗説がある)に東平府尹として登場することから、羅本は東平と縁が深かったとみる王利器の説もある。東平は元代に漢人軍閥の厳実・厳忠済父子が地方政権を築いており、元好問など山西地方の文化人が戦乱を避けて多く移り住み、高文秀などの劇作家を生んだ文化的な地だった。いっぽう浙江の郎瑛(1487年 - 1566年?)が、世上の見聞をまとめたメモ『七修類稿』では、「『三国』『水滸』はともに杭人羅本貫中の作である」と記しており、羅貫中を杭州の人間としている。これらをすべて信用し強引にまとめると、羅貫中(もしくは祖先)は元々太原の出身で、その後東原を経て杭州へ移ったということになる。当時モンゴルの支配を避け、北方から南方へ移り住んだ文化人の中には「書会」と呼ばれるギルド組織を構成し、雑劇や小説を作成する者がいたという。各都市の書会ギルドはネットワークを形成し、新たな移住先や旅行先の情報を得る上でも有利に働いた。羅貫中の号とされる「湖海散人」も、遍歴する自由人としての姿を髣髴とさせる。 そうなると「羅貫中」というのは、上記のような書会ギルド名であった可能性や、書会を構成する才人(職業的文士)の伝説的名前として複数人から使用され、個人の名前ではなかった可能性もある。実際『演義』は各場面によって使われる用語・用字の傾向に著しい偏りがあり、すべての構成を1人の人間が一から作成したとは考えがたい。 なお羅貫中は他にも『隋唐両朝志伝』『残唐五代史伝』『三遂平妖伝』『水滸伝』などを執筆したとされるが、これらもかなり疑わしい。確かにこれらの作品には『演義』の影響が見られる。しかし、それはむしろ『演義』のプロットを一部借用して別の作者が書き、羅貫中の名を利用して箔を付けた為と思われる。上記の著作群は16世紀に入った嘉靖年間(1522年 - 1566年)前後に立て続けに出版されている。高島俊男は文学界の潮流として、通俗小説の機運が成熟する嘉靖期よりはるか以前の、明初の人物とみられる羅貫中の作品群が、すべて16世紀まで世に出ずに書写・退蔵され、約200年後に一気に出版されたとは考えづらいと指摘する。また上田望も、原「三国演義」に大部の書物である『綱目』の文章が参照されていることを明らかにし、印刷文化の普及が進んでおらず、史書が高価であった元末明初に、一介の戯曲作家「湖海散人」羅貫中が『綱目』を購入する資力があったとは考えづらく、原「三国演義」の作者はもう少し時代が下がり、木版印刷によって『綱目』が入手可能となった時期の知識人であったと推測する。 このように、羅貫中という一作家がいて、『演義』の最終的な編集を行ったと言えるかどうかは、かなり疑わしい。仮にそうだったとしても、当人の手による作品が現存しておらず、羅貫中版・原「三国演義」を検証することはできない。嘉靖本の序文には「好事者そろいて相写す」とあり、16世紀に印刷文化が隆盛するまでは、専ら書写によって抄本(鈔本)が作られていたと推測され、その過程で他者による改編・挿増・誤写が頻繁に行われたとみられるからである。とはいえ明代の早期に、後に『演義』と呼ばれることになる小説が成立していて、その作者が羅貫中であるとする噂が広まっていたことは間違いない。この成立時期は『平妖伝』『水滸伝』『西遊記』など16世紀に生まれた他の小説よりもかなり早く、『演義』が通俗小説の祖として、他の作品に影響を与えたり、模倣作品を生み出すこととなる。
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