糖蜜の洪水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 15:53 UTC 版)
この事故が発生したのは1919年1月15日のことだった。ここ数日はひどく寒い日が続いていたが、その時期は気温が急上昇し40°F(4℃)を超えた:91, 95。糖蜜は発酵させてエチルアルコールを回収し、酒に使われたり、軍需品の生産のための主要な成分として用いられていた:11。貯蔵された糖蜜は、マサチューセッツ州ケンブリッジの、ウィロー・ストリートと現在エヴェレテーズ・ウェイと呼ばれている場所の間にあるピュリティ・ディスティリング・カンパニーの工場へ移送される予定だった。 キーニー広場の近くのコマーシャル・ストリート529番地にある糖蜜貯槽は、高さ50フィート(15メートル)、直径90フィート(27メートル)という大きさで、230万米ガロン(870万リットル)もの量の糖蜜を貯蔵していた。昼過ぎの午後12時30分頃、この貯槽が突然崩壊した。目撃者は貯槽が崩壊したとき、地面の揺れを感じ、轟音を聞いたと報告した。その長く響く轟音は鉄道が高架を通過しているかのようだったという。貯槽から鋲が吹き飛んだとき、すさまじい破壊音、太く低いうなり、落雷のような音、機関銃のような音を聞いたと語った人々もいる:92-95。 糖蜜の密度は1立方メートル当たり約1.4トンであり、水よりも40パーセント高い。そのため、糖蜜は大きな位置エネルギーを有していた。貯槽の崩壊で、大きな位置エネルギーが多大な運動エネルギーを持った糖蜜の波を生み出した。その高さは最高25フィート(7.6メートル)、速さは時速35マイル(56キロメートル)にもなった。糖蜜の波は近隣のボストン高架鉄道のアトランティック・アベニュー高架線(英語版)の橋桁に損傷を与え、瞬時のうちに鉄道車両を軌道から転覆させた。近くの建物は基礎から押し流されて破壊された。いくつかの区域は2フィート(60センチメートル)から3フィート(90センチメートル)もの高さの糖蜜で溢れかえった。著述家のスティーブン・プレオ (英: Stephen Puleo) は著書でボストン・ポスト(英語版)の次の報道を引用した。 腰ほどの高さの糖蜜が通りを覆い尽くし、残骸の周りで渦巻き泡立った。……あちらこちらにもがく生き物の姿があったが、それが動物か人間かは区別ができなかった。そこに生き物がいると教えてくれるのは、粘液の海の中をのたうつときに生じる隆起だけだった。……ハエ取り紙にたくさんくっついたハエのように馬が死んでいた。馬はもがけばもがくほど、糖蜜の深みにはまっていた。人間も馬と同じように男女問わず苦しんでいた:98。 ボストン・グローブの報道によれば、人々は強風にあおられて転倒していたという。甘い匂いを含んだ強風で瓦礫が崩れ、その直撃を受けた人もいた。あるトラックはボストン港(英語版)まで押し流されていた。糖蜜の波が通り過ぎた後、低い気温により糖蜜は粘度を増し、状況はさらに悪化した。これにより、糖蜜の波を受けた人々が糖蜜の中に捕らわれ、救出がいっそう困難になった。約150人が負傷し、21人と数頭の馬が死亡した。糖蜜や押し流された瓦礫により押し潰されたり、溺れたりした人もいた。馬や犬も含む負傷者たちの多くが咳の発作を起こしていた。エドワーズ・パーク (英: Edwards Park) は1983年のスミソニアンの記事に次に示す子供の体験談を掲載している。 アンソニー・ディ・スターシオ (英: Anthony di Stasio) は自分の姉妹とともにミケランジェロ・スクールから帰宅しようとしていたが、糖蜜の波にさらわれ、波の上へ転倒し、まるでサーフィンをしているかのような状態になった。それから波が小さくなると、転落して糖蜜の中を丸石のように転がされた。母親が名前を呼ぶ声が聞こえたが、返事はできなかった。喉がべたつく糖蜜で詰まって窒息していたためである。気を失い、それから目を開けると、4人の姉妹のうちの3人が自分のことを見ていた。
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