第二次世界大戦前夜
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「ホルティ・ミクローシュ」の記事における「第二次世界大戦前夜」の解説
ハンガリーの愛国者はイタリアで起ったファシスト運動に触発され、矢十字党を始めとして数多くの民族主義政党を設立、国民議会の選挙を通じて一定の議席数を確保し、国政へ発言権を増幅する事に成功していた。矢十字党を始めとする各々の民族主義政党の綱領は似通っており、概ね「大戦後の失地回復」と「ホルティへの忠誠」が共通して見られた。しかしホルティ自身は全体主義的な民族主義運動には度々懸念を表明しており、特にイタリアから影響されたファシスト運動は嫌悪していた。ホルティは喪失した領土を回復する事が国際情勢を省みていかに困難かを理解しており、安易に国民を煽り戦争を引き起こす切っ掛けとなりかねない政治運動には、法の範囲内で警察力を持って度々介入している。しかし時代的・地政学的にそれらの政治運動の流れを止める事は難しかった。ホルティは穏健な立憲主義者であり、国民の支持の元、緩やかな権威主義的独裁体制であったホルティ政権が矢十字党のファシストに対し徹底した弾圧を行う事はなかった。 国民議会は復興目覚ましいナチス・ドイツへ接近、渋るホルティを促してドイツとの軍事同盟を締結させた。ホルティ自身はナチス政権に懐疑的で、嫌悪感すら表し、アドルフ・ヒトラーについても軽蔑していた。「私は、国民から摂政を辞任する様に求められれば喜んで辞任するが、彼は決して首相を辞任しないだろう」と評している。実際、ハンガリー国内の親独組織の首魁として台頭しつつあったサーラシ・フェレンツを微罪で度々逮捕させたり、親独的なイムレーディ・ベーラ首相を解任している。又、反ヒトラーグループで活動していた、アプヴェーアのヴィルヘルム・カナリスと親しく語り合っていた。そして反ユダヤ主義には断固として反対しており、当時、国民議会で準備されていた反ユダヤ法に対しても「愛国的なユダヤ人」に損害を与えると懸念しており、「彼らは自分と全く同じハンガリー人なのだ」とも語っている。 しかし、結果としてハンガリーはドイツと運命共同体となる事を選択し、枢軸国として戦争の道を突き進んだ。ドイツはハンガリーへ徹底した懐柔策をとり、所謂ウィーン裁定を行った。この裁定により、スロバキア南部とカルパティア・ルテニアがハンガリー領に戻り、又、ルーマニアから北部トランシルヴァニアをハンガリーへ返還させた。更にドイツ軍のユーゴスラビア侵攻後、東部ヴォイヴォディナを割譲した事から、ハンガリー国内ではより一層、ドイツに協力的なファシスト運動が盛んとなった。 第二次世界大戦の独ソ戦が始まると、国内のファシスト運動に押され、国民議会も枢軸国の一員としてソビエト連邦への宣戦布告を決議、ホルティも追認した。しかし、ホルティは反共主義者ではあるが、厳格な軍人であり現実主義者として、破竹の勢いで欧州を席巻したドイツ軍を評価しつつも、ソ連への宣戦には懐疑的であり否定的であった。「ロシアの冬を甘く見ない方がいい。ナポレオン(率いるフランス軍)と同じ運命を辿る事となるだろう」と、枢軸国ながら駐独大使に警告している。ハンガリー王国軍はルーマニア王国軍と共に、長大な東部戦線の最右翼、オデッサ方面の攻略を担い、参戦当初は順調に進撃していた。しかし、「野砲の援護と騎兵突撃」を組み合わせたハンガリー王国軍の旧来の戦術は、後に登場したT-34を始めとするソ連軍の新式中・重戦車に到底太刀打ち出来ない物であった。スターリングラード攻防戦でのパウルス元帥率いるドイツ軍が壊滅し、次第に枢軸国の劣勢が明らかとなると、ホルティは早々にドイツと距離を置く事を考慮し始めた。又、ドイツはハンガリー国内のユダヤ人をドイツ国内に移送する事を要求したが、ナチスによるユダヤ人政策に予てから批判的であったホルティはこれを断固として拒否。ブダペスト駐在ドイツ大使を政務室へ呼び付け、「君等が我々から誘拐出来るユダヤ人は只の一人もいない。彼等は我々の良き友であり、王国国民である。私は執政として国民を護る義務を負っている」と一喝している。
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第二次世界大戦前夜
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1930年代、世界経済の低迷やスペイン内乱はフランスの経済にも重大な悪影響を及ぼしており、競馬界もその例外ではなかった。凱旋門賞の賞金は一時期60万フランまで増えていたが、1930年代の半ばには40万フランまで減り、フランス国内の一流馬さえ凱旋門賞に出走しないものも出た。1937年に1着賞金が100万フランに増額されたが、この頃には既に創設当時と比べてフランの価値は半分以下になっていた。さらに1938年にはドイツがオーストリア併合を行い、秋には対ドイツ開戦目前と考えられた。実際、1938年の9月後半にはフランス国内に250万人の動員が行われ、競馬どころではなくなってきた。危機は9月末のミュンヘン会談によってギリギリのところで回避されたようだったが、10月頭の凱旋門賞は極めて低レベルのメンバーで行なわれた。結果的にはこれが第二次世界大戦前に行なわれた最後の凱旋門賞となった。 1939年、フランスに名馬ファリスが登場した。ファリスはフランスダービーとパリ大賞で致命的な不利を跳ね返して劇的な勝利を飾ると、無敗のまま、イギリスのセントレジャーステークスでイギリスのブルーピーターとの対決することにした。ブルーピーターはイギリスに登場した名馬で、この年英国二冠とエクリプスステークスを制し、9月のセントレジャーでイギリスクラシック三冠に挑むことになっていた。セントレジャーの1か月後には凱旋門賞があり、セントレジャーの結果次第では凱旋門賞でも両雄の対決が見られるかもしれなかった。しかし、9月1日にドイツがポーランドに侵攻し、イギリスとフランスはドイツへ宣戦布告した。セントレジャーも凱旋門賞も中止となり、両者の対決は幻となった。
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