第一尚氏
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第一尚氏(だいいちしょうし)は尚思紹王を始祖とし、7代63年間(1406年(永楽4年)- 1469年(成化5年))続いた琉球最初の統一王朝をつくりあげた王家およびその姓の通称。正式には尚氏だが、第二尚氏と区別するために、一般には第一尚氏と呼ばれる[2]。
- ^ 琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、源為朝は現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。なお、『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為レ渡儀疑無二御座一候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖レ然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為レ絶故也」)なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(2010年4月16日)するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。
- ^ a b 尚氏については太田亮著、上田萬年、三上参次監修『姓氏家系大辞典 第2巻』(角川書店、1934年)2948頁参照。
- ^ 佐敷上グスク[リンク切れ]
- ^ 佐敷上グスク
- ^ 詳しくは、いしゐのぞむ「古琉球史を書き換へる」『純心人文研究』第28号、長崎純心大学、2022年2月、213-240頁、CRID 1050291768469112064、ISSN 13412027、国立国会図書館書誌ID:032010890。
また、石井望は『八重山日報』日曜談話連載「小チャイナと大世界」でもこれを連續討論してゐる。
連載第64回「えらぶ宰相の合従連衡、南山王の謎も解明」
第65囘「佐敷新里の尚巴志、八重山語でも解釈可能」
第66囘「北から東廻りで島産み、倭寇の南下経由地か」
第79囘「倭寇の秘密基地琉球、糸満漁民が尖閣へ」。
第85囘「尚巴志は兄者だった、武士の琉球が甦る」。
第86囘「琉球新報が誤報で煽動、南北山の真相を見逃す」。
- 1 第一尚氏とは
- 2 第一尚氏の概要
- 3 第一尚氏、名和氏説
- 4 参考文献
第一尚氏王統
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1429年(宣徳4年) 尚巴志王が三山統一を果たす。 1431年 対馬海賊頭目早田六郎次郎の警固により通信使が朝鮮に至る。 1441年 - 1447年 この頃奄美大島を攻撃し、同島を尚思達王が制圧。 1448年 北京の会同館で琉球使が騒動を起こす。 1450年 京の禅僧、芥隠承琥 が来琉する。後の4代、尚泰久王・尚徳王・尚円王・尚真王に仕え、琉球の臨済宗の開祖となる。 1451年(宝徳3年) 兵庫津に入港した琉球商船が下ろした交易品を細川勝元が奪い取り、代金を踏み倒す。(『康富記』) 1454年(景泰5年) 志魯・布里の乱。首里城が焼け落ちる。 1455年 尚泰久王、和僧道安を朝鮮に遣使、倭寇に拉致された人民を送還するのと引替えに大蔵経を請求。 1458年(天順2年) 護佐丸・阿麻和利の乱が起きる。万国津梁の鐘鋳造。 1466年 尚徳王が喜界島を制圧。同年、芥隠承琥を使節として足利義政に謁見さしめる。
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第一尚氏王統
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「琉球王国」も参照 中山王武寧を討った佐敷按司尚巴志は首里城を王都とし、父の尚思紹を中山王とする。これが第一尚氏王統の始まりである。巴志はさらに山北の攀安知、山南の他魯毎を討ち、1429年、三山統一を成し遂げる。これをもって琉球王国の始まりとする。巴志は父の死後、第二代の王となるが、その後の国王はいずれも短命であった。尚思達王は1447年、奄美大島を征服し王国の版図に加えた。 尚金福王(巴志の六男)は第5代琉球国王となるが1453年、彼も在位4年で死去した。金福の後継を巡って息子の尚志魯と弟の尚布里が争った結果、首里城は焼失、明からの「琉球国王之印」も失った上、両者相討ちとなった(志魯・布里の乱)。ここで巴志の7男である尚泰久が明へ使者を送り、国王印を下賜されて第6代王位に就いた。尚金福王が、それまで島だった那覇と首里を結ぶ「長虹堤」の建設を始めるも幾度となく頓挫、1451年(景泰2年・宝徳3年)に天照大神を日本から招き、祈願したところ完成したため、那覇若狭町に天照大神を祀った長寿宮(後の浮島神社、1988年(昭和63年)に波上宮内仮宮に遷座) を創建したとある。これが史書で確認できるものとしては初の神社建立である。このほかに創建年は前後し諸説あるが、波上宮(勅願寺と共に1368年創建が有力)、沖宮、識名宮、普天間宮、末吉宮、安里八幡宮、天久宮、金武宮の八社(琉球八社)が整備された。このうち、七社が熊野権現を、一社は八幡大神を祀っている。琉球国一の宮は波上宮である。また、京の禅僧、芥隠承琥が1450年に琉球に渡り次の尚泰久王に仕え、琉球の臨済宗の開祖となった。 尚泰久王は「万国津梁の鐘」を鋳造し、首里城正殿にかけさせた。日本僧渓隠安潜に選ばせた文章を鐘に刻み付け、「異産至宝は十方刹に充満せり」とした。1458年に完成すると在位7年で死去した。この鐘は現在は沖縄県立博物館・美術館に所蔵され、国指定の重要文化財に指定されている。また首里城にはそのレプリカがある。 尚徳王は1466年、喜界島に親征し王国の版図とする。同年に芥隠承琥を使節として足利義政に謁見させる。しかし尚徳王は在位9年で急死する。法司(後の三司官)は尚徳王の世子を王に推挙しようとしたが、安里大親がこれを押しとどめて、重臣たちを前にして、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)を次期王に推挙した。重臣たちはこの提案に賛同し、これによって、金丸が1470年、国王に即位した。金丸は、1472年には明から冊封使が派遣され、中山王に封じられた。金丸が即位した経緯については、正史の記述のほかに、クーデターだったのではないかとの説があり、実際に金丸によって第一尚氏王統の王族はほとんどが殺害されている。 この時代の交易関係については、尚泰久王は「異産至宝は十方刹に充満せり」と称しているが、「歴代宝案」においては「本国は貢物が稀少です」と一貫して述べられており、異産至宝はあっても貢物は少なかった事が分かる。両者の整合性については不明だが、とりあえず「異産至宝」が充満しているとは述べられているが、それが王府の所有物だとは一言も述べられていない点は指摘できる。 また尚徳王は、1465年に明に対し、概略次のように述べている。「近年、我が方の附搭貨物に対しては、絹物が給されていますが、お蔭で銅銭が欠乏して貢物が買えません。我が国の産物は馬と硫黄だけで他の物は他国から購入しております。どうか銅銭を給してください」王府が厳しい懐事情をやりくりして、懸命に朝貢を続ける様子が窺える。
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第一尚氏王統(1406年~1469年)
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「按司」の記事における「第一尚氏王統(1406年~1469年)」の解説
1406年、佐敷按司・巴志(1372年 - 1439年、後の尚巴志王)は武寧王を滅ぼし、父・思紹(1354年 - 1421年、尚思紹王)を中山王の位に就かせた。翌年、思紹は武寧王の世子(世継ぎ)と偽って明へ使者を派遣し、武寧王の薨去を告げると、正式に王爵を受け継いだ。第一尚氏王統の始まりである。思紹が亡くなると、巴志が1422年、中山王に即位した。巴志は1429年に南山王・他魯毎を滅ぼし、琉球を統一した。そして、翌年には明から尚姓を賜わり、尚巴志と名乗った。 第一尚氏王統下では、按司は王号に次ぐ称号として、地方豪族の首長の称号などに用いられた。また、王の子の一部も按司を称した。実際、後世の史書の記述では、王の子は、王子と記されている者(例:尚巴志王次男・今帰仁王子、後の尚忠王)がいたり、按司と記されている者(例:尚巴志王四男・八江瀬按司)がいたりと、表記に揺れがあり一律ではない。そのため王子号の使用は限定的だったか、あるいはこれも史書編纂の際に便宜上記しただけで、実際にはみな按司と称していた可能性も考えられる。
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