第一尚氏王統とは? わかりやすく解説

第一尚氏

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 00:46 UTC 版)

第一尚氏(だいいちしょうし)は尚思紹王を始祖とし、7代63年間(1406年永楽4年)- 1469年成化5年))続いた琉球最初の統一王朝をつくりあげた王家およびその姓の通称。正式には尚氏だが、第二尚氏と区別するために、一般には第一尚氏と呼ばれる[2]


  1. ^ 琉球王国正史中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、源為朝は現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、大正11年には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。なお、『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為渡儀疑無御座候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為絶故也」)なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(2010年4月16日)するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。
  2. ^ a b 尚氏については太田亮著、上田萬年三上参次監修『姓氏家系大辞典 第2巻』(角川書店1934年)2948頁参照。
  3. ^ 佐敷上グスク[リンク切れ]
  4. ^ 佐敷上グスク
  5. ^ 詳しくは、いしゐのぞむ「古琉球史を書き換へる」『純心人文研究』第28号、長崎純心大学、2022年2月、213-240頁、CRID 1050291768469112064ISSN 13412027国立国会図書館書誌ID:032010890 
    また、石井望は『八重山日報』日曜談話連載「小チャイナと大世界」でもこれを連續討論してゐる。
    連載第64回「えらぶ宰相の合従連衡、南山王の謎も解明
    第65囘「佐敷新里の尚巴志、八重山語でも解釈可能
    第66囘「北から東廻りで島産み、倭寇の南下経由地か
    第79囘「倭寇の秘密基地琉球、糸満漁民が尖閣へ」。
    第85囘「尚巴志は兄者だった、武士の琉球が甦る」。
    第86囘「琉球新報が誤報で煽動、南北山の真相を見逃す」。


「第一尚氏」の続きの解説一覧

第一尚氏王統

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沖縄県の年表」の記事における「第一尚氏王統」の解説

1429年宣徳4年尚巴志王三山統一を果たす。 1431年 対馬海賊頭目早田六郎次郎警固により通信使が朝鮮に至る。 1441年 - 1447年 この頃奄美大島攻撃し、同島を尚思達王制圧1448年 北京会同館で琉球使が騒動起こす1450年 京の禅僧芥隠承琥 が来琉する。後の4代尚泰久王尚徳王尚円王尚真王仕え琉球臨済宗開祖となる。 1451年宝徳3年兵庫津入港した琉球商船下ろした交易品細川勝元奪い取り代金踏み倒す。(『康富記』) 1454年景泰5年志魯・布里の乱首里城焼け落ちる1455年 尚泰久王和僧道安朝鮮に遣使、倭寇拉致され人民送還するのと引替え大蔵経請求1458年天順2年護佐丸・阿麻和利の乱起きる。万国津梁の鐘鋳造1466年 尚徳王喜界島制圧同年芥隠承琥使節として足利義政謁見さしめる。

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第一尚氏王統

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 18:32 UTC 版)

沖縄県の歴史」の記事における「第一尚氏王統」の解説

琉球王国」も参照 中山王武寧討った佐敷按司尚巴志首里城王都とし、父の尚思紹中山王とする。これが第一尚氏王統の始まりである。巴志はさらに山北攀安知山南他魯毎討ち1429年三山統一成し遂げるこれをもって琉球王国始まりとする。巴志父の死後第二代の王となるが、その後国王はいずれ短命であった尚思達王1447年奄美大島征服し王国版図加えた尚金福王巴志の六男)は第5代琉球国王となるが1453年、彼も在位4年死去した金福後継巡って息子尚志魯と弟の尚布里争った結果首里城焼失明からの「琉球国王之印」も失った上、両者相討ちとなった志魯・布里の乱)。ここで巴志の7男である尚泰久が明へ使者送り国王印を下賜されて第6代王位就いた尚金福王が、それまで島だった那覇首里を結ぶ「長虹堤」の建設始めるも幾度となく頓挫1451年景泰2年宝徳3年)に天照大神日本から招き祈願したところ完成したため、那覇若狭町天照大神祀った長寿宮(後の浮島神社1988年昭和63年)に波上宮仮宮遷座) を創建したとある。これが史書確認できるものとしては初の神社建立である。このほかに創建年は前後し諸説あるが、波上宮勅願寺と共に1368年創建が有力)、沖宮識名宮普天間宮末吉宮安里八幡宮天久宮金武宮八社琉球八社)が整備された。このうち七社熊野権現を、一社八幡大神祀っている。琉球国一の宮波上宮である。また、京の禅僧芥隠承琥1450年琉球渡り次の尚泰久王仕え琉球臨済宗開祖となった尚泰久王は「万国津梁の鐘」を鋳造し首里城正殿にかけさせた。日本僧渓隠安潜に選ばせた文章を鐘に刻み付け、「異産至宝十方刹に充満せり」とした。1458年完成する在位7年死去した。この鐘は現在は沖縄県立博物館・美術館所蔵され、国指定重要文化財指定されている。また首里城にはそのレプリカがある。 尚徳王1466年喜界島親征王国版図とする。同年芥隠承琥使節として足利義政謁見させる。しかし尚徳王在位9年急死する法司(後の三司官)は尚徳王世子を王に推挙しようとしたが、安里大親がこれを押しとどめて重臣たちを前にして、尚泰久王重臣であった金丸尚円王)を次期王に推挙した重臣たちはこの提案賛同し、これによって、金丸1470年国王に即位した。金丸は、1472年には明か冊封使派遣され中山王封じられた。金丸即位した経緯については、正史の記述のほかに、クーデターだったのではないかとの説があり、実際に金丸によって第一尚氏王統の王族はほとんどが殺害されている。 この時代交易関係については、尚泰久王は「異産至宝十方刹に充満せり」と称しているが、「歴代宝案においては本国貢物稀少です」と一貫して述べられており、異産至宝はあっても貢物少なかった事が分かる両者整合性については不明だが、とりあえず「異産至宝」が充満しているとは述べられているが、それが王府所有物だとは一言述べられていない点は指摘できる。 また尚徳王は、1465年明に対し概略次のように述べている。「近年我が方の附搭貨物に対しては、絹物給されていますが、お蔭で銅銭欠乏して貢物買えません。我が国産物は馬と硫黄だけで他の物は他国から購入しております。どうか銅銭給してください王府厳し懐事情やりくりして懸命に朝貢続け様子窺える

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第一尚氏王統(1406年~1469年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/02 03:11 UTC 版)

按司」の記事における「第一尚氏王統(1406年1469年)」の解説

1406年佐敷按司巴志1372年 - 1439年、後の尚巴志王)は武寧王滅ぼし、父・思紹1354年 - 1421年尚思紹王)を中山王の位に就かせた。翌年思紹武寧王世子世継ぎ)と偽って明へ使者派遣し武寧王薨去告げると、正式に王爵を受け継いだ。第一尚氏王統の始まりである。思紹亡くなると、巴志1422年中山王即位した巴志1429年南山王・他魯毎滅ぼし琉球統一した。そして、翌年には明か尚姓を賜わり、尚巴志名乗った。 第一尚氏王統下では、按司王号に次ぐ称号として、地方豪族首長の称号などに用いられた。また、の子一部按司称した実際後世史書記述では、王の子は、王子記されている者(例:尚巴志王次男今帰仁王子、後の尚忠王)がいたり、按司記されている者(例:尚巴志王四男・八江瀬按司)がいたりと、表記揺れがあり一律ではない。そのため王子号使用限定的だったか、あるいはこれも史書編纂の際に便宜上記しただけで、実際にはみな按司称していた可能性考えられる

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