理論的貢献
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「クヌート・ヴィクセル」の記事における「理論的貢献」の解説
ヴィクセルはレオン・ワルラス(ローザンヌ学派)、オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク(オーストリア学派)、そしてデヴィッド・リカードに夢中になり、経済の3つの理論的構想の統合を模索した。統合的な経済理論の構築に関するヴィクセルの研究は、彼に「経済学者の経済学者」としての名声をもたらした。例えば、「生産要素への支払は、それらの限界生産力に等しい」という限界生産力理論はジョン・ベイツ・クラークのような他の経済学者によって展開されたが、ヴィクセルは遥かに単純でより堅牢な原理の論証を示した。その理論についての現在の概念の多くはヴィクセルのモデルから発生している。 リカードの所得分布の研究から拡張してヴィクセルは、全く制限の無い経済であったとしても、ヴィクセルの前任者の多くが予言したように富が均等配分されるようには運命づけられていないと結論づけた。その代わりにヴィクセルは、成長によって生じた富は、最初に富を持っていた者に配分されるだろうと予言した。これにより、そして限界効用理論により、ヴィクセルは、国民福祉を改善するために政府が介入する余地を守った。 ヴィクセルが最も影響を及ぼした貢献は、彼の1898年の著作である『利子と物価』("Geldzins und Güterpreise")の中で発表された、彼の利子理論である。彼は自然利子率と貨幣利子率との間に重要な区別をつけた。ヴィクセルの貨幣利子率は単に資本市場に見られる利子率であった。自然利子率は実物市場の物価に対して中立的な利子率であり、より正確には、あたかも資本市場が必要とされないかのように、実物市場の需要と供給が均衡する利子率である。これは、自然利子率が市場相場より高いときに好況が発生する、と理論づけたオーストリア学派の理論に繋がるものだった。 この「累積過程」と呼ばれる貢献は、自然利子率が市場相場と等しくないとき、投資需要と貯蓄量が等しくならない、ということを意味するものだった。市場相場が自然利子率を下回るとき、経済の膨張が生じ、他の事情が変わらなければ、物価は上昇するだろう、というものである。 この着想は、中央銀行政策に基いた景気循環の理論を形成するために、オーストリア学派によって拡張されることになった。経済の貨幣水準の変更は、何らかの方法で自然利子率に関連している為替相場を遷移させ、そして経済成長の変化を引き起こす。累積過程は、ジョン・メイナード・ケインズの『雇用、利子、および貨幣の一般理論』が現れるまで、景気循環の主導的理論だった。ヴィクセルの理論は、経済成長と景気後退に関するケインズの着想と、同じく景気循環に関するヨーゼフ・シュンペーターの「創造的破壊」理論に強い影響を及ぼすことになった。 ヴィクセルの主要な知的ライバルは、経済はほとんど専ら長期価格の上に安定する、という貨幣数量説のより簡潔な説明を支持したアメリカの経済学者アーヴィング・フィッシャーだった。ヴィクセルの理論はこれに比べると、実体経済における変化の体系の中の利子率に始まる、かなり複雑なものだった。二人の経済学者は共に自分の理論から、景気循環(そして経済恐慌)の本質は政府の金融政策であると結論づけたが、彼等の間の意見の不一致は生涯解決されなかった。そして実際、半世紀の後に、ケインジアンとマネタリストとの間で政策論争が受け継がれた。
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理論的貢献
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フレイレの研究は、プラトンを起源とする古典的な流れだけでなく、マルクス主義や反植民地主義的な思想家の流れにおける教育哲学に対して大きな貢献を果たした。事実、彼の著作である「被抑圧者の教育学」は、フランツ・ファノンの「地に呪われたる者」の延長線上にあるもの、或いはそれに対する反応として読まれるべきなのかもしれない。なぜなら、ファノンは、その著作の中で、すべての原住民に対して古典的なものではない新しく近代的な教育、そして単なる植民者側の文化の伝達ではない反植民地主義的な教育、を提供するべきであると主張しているからである。 フレイレは、彼曰く「銀行型教育」への取り組みで知られており、その言葉で教師によって知識の蓄積をされていく空の口座としての生徒像を比喩した。もちろん、これはそれほど新しい考え方であるわけではない。ジャン・ジャック・ルソーが提唱した「能動的な学習者としてのこども」という概念は、基本的に「銀行型教育」の概念と同じものであるタブラ・ラサとは道を異にしている。またジョン・デューイやアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドのような思想家は、ただの「事実」の伝達が教育の目標であるという考え方を批判していた。フレイレの研究は、批判教育学の基礎となっている。 他にも、フレイレは教師と生徒の二分法に対して強い嫌悪感を示した。ルソーによって認められたこの二分法は、デューイによって継承されている。しかしフレイレにとっては、それは絶対に改められるべき考え方であった。親子関係においてもそれなりの教師-生徒関係が存在するわけで、教師と生徒の二分法を完全に改めるという状態は想像しがたいが、フレイレは、教師のような生徒、生徒のような教師、という概念を提示し、教室参加における基本的な役割として、学ぶ教師と教える学習者というものを打ち出した。 フレイレの試みは、ただの民主主義的な教育を目指すというわけではなく、教育的な方法として民主政治を実行するという数少ない試みの1つであった。民主政治というものと向き合い続けてきたデューイでさえ、自らの方法論に民主政治的な実践を完全に組み入れることは無かった。但し、こういった教室の形態に対して、それは教師の権威を克服するのではなく隠蔽するにすぎないのだという批判もなされている。
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