独立の固定化とは? わかりやすく解説

独立の固定化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/14 15:19 UTC 版)

ボリビア独立戦争」の記事における「独立の固定化」の解説

一方一部で「南米ナポレオン」と呼ばれたシモン・ボリバルホセ・デ・サン=マルティンラテンアメリカ各地解放注力していた。アルゼンチン出身サン=マルティンはすでにチリ解放しており、ペルー移っていた。彼はラテンアメリカにおけるスペイン統治を完全に終わらせるためにはペルー王党派撃破する必要がある考えた当時チャルカスペルー副王領一部だったため、ペルー解放チャルカスにつながる。サン=マルティンスペイン制海権保持している限り大陸での足場維持される考えたため、1819年チリ軍従軍したトマス・コクラン指揮官艦隊編成したサン=マルティン1821年7月リマ落とし、そこでペルー独立宣言したその後サン=マルティン残留した王党派の強い抵抗受けた彼の軍勢疫病脱走により徐々に解体していったため、彼はボリバル助け求めるしかなかった。ボリバルサン=マルティン会談したが、解放した国で設立すべき政体について合意できなかった。会談物別れ終わった後、サン=マルティンペルー戻ったが、ペルー残っていた者に国家運営能力がなかったためリマ革命おこっていた。サン=マルティン失望してペルー護国卿から辞任したボリバル南米大陸からスペイン人追い出すことが自身務めであると信じてリマ向かった1823年9月1日リマ到着すると、彼はすぐに指揮を執った。 1824年9月アヤクチョ戦い英語版)でアントニオ・ホセ・デ・スクレ率い大コロンビアペルー軍5,700人が王党派軍勢6,500人を撃破王党派指揮官ホセ・デ・ラ・セルナ・エ・イノホーサ(英語版)を捕虜にした。これにより、独立戦争新たな動力得た。 しかし、王党派軍勢はエル・カヤオの要塞チャルカスにいたペドロ・アントニオ・オラニェタ(英語版将軍率い軍勢健在であった。エル・カヤオの軍勢簡単に倒せたが、オラニェタの軍勢はしぶとかった。1824年にはオラニェタがチャルカススペイン領留めるためにブラジル降伏する計画立てた、という噂が出回るほどであった。彼はブラジル軍勢派遣要請したが、ブラジル拒否したボリバルサン=マルティンはオラニェタにアヤクチョ戦いで助けられたことがあったため、彼と交渉しようとした。一方ボリバル部下であるスクレはオラニェタを信じなかったため、講和計画尻目にチャルカス占領開始した。彼は交渉武力行使両面でオラニェタを説得しようとしたのであったボリバルはオラニェタが決定下すのに時間がかかる考えチャルカスへの旅行計画した。しかし、オラニェタは奇襲計画したスクレチャルカス住民従軍要請1825年1月にはオラニェタの大部隊が脱走しスクレ軍勢加わった3月9日にはオラニェタを除く王党派将軍全員スクレ捕虜になった。しかし、オラニェタはそれでも降伏断り結局4月13日兵士一部反乱した後の戦闘致命傷負った。ここにスペイン南米へ支配放棄したスクレラパスを「アメリカ独立揺りかご」と呼んだ。その理由は、独立を望む人々がはじめて殺害されたのはラパスであり、最後の王党派軍勢敗れたのもラパスであったからである。王党派残党兵士反乱脱走解体した。1825年4月25日スクレスペイン支配中心地であったチュキサカ入城したチュキサカ市民喜び市議会聖職者大学生たち全て集まってスクレ歓迎したスクレ市中心部まで連れて行くために古代ローマ風のチャリオットまで準備したスクレ7月10日チュキサカ会議開きチャルカス国制定めようとした。この委員会討議され選択肢アルゼンチンとの連合ペルーとの連合、そして完全独立3つであったボリバル望みペルーとの連合であったが、委員会結論独立だった。そして、1825年8月6日独立宣言委員会全員署名したボリビア国名ボリバル由来とすることに疑義はなかったが、ボリバル由来国名選ばれ理由諸説紛々であった一部歴史家ボリバルペルーとの連合望んだため、人々ボリバル反対恐れて彼をなだめようとしたと主張したボリビア現代でもボリバル誕生日を祝うという。ボリバル大統領を5か月務め減税断行したほか、先住民族への援助として土地改革行ったボリバル大コロンビアに戻ると、次期大統領スクレ就任したスクレ先住民族強いられた税金軽減しようとしたが、それがなければアルゼンチンによるボリビア侵攻を防ぐための大コロンビア軍を維持できなかったため、減税計画失敗したそれ以降現地エリート層が議会支配した。彼らはスクレ努力支持したが、大コロンビア軍の駐留には怒った暗殺試みられた後、スクレ1828年4月辞任ベネズエラ戻ったボリビア議会次期大統領ラパス出身アンドレス・デ・サンタ・クルス選出したサンタ・クルス元王党派士官であり、1821年以降サン=マルティンの下、続いてエクアドル戦役スクレの下で働き1826年から1827年までペルー大統領短期間務めたサンタ・クルス1829年5月ボリビア到着大統領就任した

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独立の固定化(1820年-1833年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:29 UTC 版)

イスパノアメリカ独立戦争」の記事における「独立の固定化(1820年-1833年)」の解説

詳細は「スペイン立憲革命」を参照 1819年独立派戦役成功したことを受け、スペイン2度目となる大規模な遠征軍組織した。しかし、この遠征軍スペイン離れることはなかった。その代わり自由派立憲君主制復活させるための手になった1820年1月1日アストゥリアス大隊の指揮官ラファエル・デル・リエゴ反乱起こし1812年憲法復活要求した彼の軍勢アンダルシア州都市行軍市民支持得ようとしたが、現地住民興味薄かった。しかし、スペイン北部ガリシアでは反乱がおこり、それが瞬く間全国広がった3月7日にはマドリード王宮がフランシスコ・バレステロス(英語版将軍率い軍勢包囲されフェルナンド7世3日後の3月10日憲法復活同意したリエゴ反乱イスパノアメリカ独立戦争軍事政治両面大きな影響与えた軍事的にヌエバ・グラナダ奪回ペルー副王領守備必要だった大規模な増援到着しなくなり王党派状況悪化したため、各地部隊全体愛国派に寝返る事件続出した政治的にスペイン政府イスパノアメリカ反乱への態度大きく変わった新政府反乱軍スペイン自由主義のために戦っていると考えスペイン憲法擁護そのまま和解につながると単純に考えたであった政府憲法実施し海外県でもスペイン本国同じよう選挙行ったまた、軍部には停戦交渉を行うよう命じ反乱軍代議制政府参加できる約束した

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