独立の固定化
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一方、一部で「南米のナポレオン」と呼ばれたシモン・ボリバルとホセ・デ・サン=マルティンはラテンアメリカ各地の解放に注力していた。アルゼンチン出身のサン=マルティンはすでにチリを解放しており、ペルーに移っていた。彼はラテンアメリカにおけるスペイン統治を完全に終わらせるためにはペルーの王党派を撃破する必要があると考えた。当時、チャルカスがペルー副王領の一部だったため、ペルーの解放はチャルカスにつながる。サン=マルティンはスペインが制海権を保持している限り、大陸での足場も維持されると考えたため、1819年にチリ軍に従軍したトマス・コクランを指揮官に艦隊を編成した。サン=マルティンは1821年7月にリマを落とし、そこでペルーの独立を宣言した。その後、サン=マルティンは残留した王党派の強い抵抗を受けた。彼の軍勢が疫病と脱走により徐々に解体していったため、彼はボリバルに助けを求めるしかなかった。ボリバルとサン=マルティンは会談したが、解放した国で設立すべき政体について合意できなかった。会談が物別れに終わった後、サン=マルティンはペルーに戻ったが、ペルーに残っていた者に国家運営の能力がなかったためリマで革命がおこっていた。サン=マルティンは失望してペルー護国卿から辞任した。ボリバルは南米大陸からスペイン人を追い出すことが自身の務めであると信じてリマに向かった。1823年9月1日にリマに到着すると、彼はすぐに指揮を執った。 1824年9月のアヤクチョの戦い(英語版)でアントニオ・ホセ・デ・スクレ率いる大コロンビアとペルー軍5,700人が王党派軍勢6,500人を撃破、王党派の指揮官ホセ・デ・ラ・セルナ・エ・イノホーサ(英語版)を捕虜にした。これにより、独立戦争は新たな動力を得た。 しかし、王党派の軍勢はエル・カヤオの要塞とチャルカスにいたペドロ・アントニオ・オラニェタ(英語版)将軍率いる軍勢が健在であった。エル・カヤオの軍勢は簡単に倒せたが、オラニェタの軍勢はしぶとかった。1824年にはオラニェタがチャルカスをスペイン領に留めるためにブラジルに降伏する計画を立てた、という噂が出回るほどであった。彼はブラジルに軍勢の派遣を要請したが、ブラジルは拒否した。ボリバルとサン=マルティンはオラニェタにアヤクチョの戦いで助けられたことがあったため、彼と交渉しようとした。一方、ボリバルの部下であるスクレはオラニェタを信じなかったため、講和の計画を尻目にチャルカスの占領を開始した。彼は交渉と武力行使の両面でオラニェタを説得しようとしたのであった。ボリバルはオラニェタが決定を下すのに時間がかかると考え、チャルカスへの旅行を計画した。しかし、オラニェタは奇襲を計画した。スクレはチャルカス住民に従軍を要請、1825年1月にはオラニェタの大部隊が脱走してスクレの軍勢に加わった。3月9日にはオラニェタを除く王党派の将軍全員がスクレの捕虜になった。しかし、オラニェタはそれでも降伏を断り、結局4月13日に兵士の一部が反乱した後の戦闘で致命傷を負った。ここにスペインが南米への支配を放棄した。 スクレはラパスを「アメリカ独立の揺りかご」と呼んだ。その理由は、独立を望む人々がはじめて殺害されたのはラパスであり、最後の王党派軍勢が敗れたのもラパスであったからである。王党派の残党は兵士反乱や脱走で解体した。1825年4月25日、スクレはスペイン支配の中心地であったチュキサカに入城した。チュキサカ市民は喜び、市議会、聖職者、大学生たちは全て集まってスクレを歓迎した。スクレを市中心部まで連れて行くために古代ローマ風のチャリオットまで準備した。 スクレは7月10日にチュキサカで会議を開き、チャルカスの国制を定めようとした。この委員会で討議された選択肢はアルゼンチンとの連合、ペルーとの連合、そして完全独立の3つであった。ボリバルの望みはペルーとの連合であったが、委員会の結論は独立だった。そして、1825年8月6日の独立宣言に委員会の全員が署名した。ボリビアの国名がボリバルを由来とすることに疑義はなかったが、ボリバル由来の国名が選ばれた理由は諸説紛々であった。一部の歴史家はボリバルがペルーとの連合を望んだため、人々がボリバルの反対を恐れて彼をなだめようとしたと主張した。ボリビアは現代でもボリバルの誕生日を祝うという。ボリバルは大統領を5か月間務め、減税を断行したほか、先住民族への援助として土地改革を行った。ボリバルが大コロンビアに戻ると、次期大統領にスクレが就任した。スクレは先住民族に強いられた税金を軽減しようとしたが、それがなければアルゼンチンによるボリビア侵攻を防ぐための大コロンビア軍を維持できなかったため、減税の計画は失敗した。 それ以降、現地のエリート層が議会を支配した。彼らはスクレの努力を支持したが、大コロンビア軍の駐留には怒った。暗殺が試みられた後、スクレは1828年4月に辞任、ベネズエラに戻った。ボリビア議会は次期大統領にラパス出身のアンドレス・デ・サンタ・クルスを選出した。サンタ・クルスは元王党派軍士官であり、1821年以降サン=マルティンの下、続いてエクアドル戦役でスクレの下で働き、1826年から1827年までペルー大統領を短期間務めた。サンタ・クルスは1829年5月にボリビアに到着、大統領に就任した。
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独立の固定化(1820年-1833年)
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「イスパノアメリカ独立戦争」の記事における「独立の固定化(1820年-1833年)」の解説
詳細は「スペイン立憲革命」を参照 1819年、独立派の戦役が成功したことを受け、スペインは2度目となる大規模な遠征軍を組織した。しかし、この遠征軍がスペインを離れることはなかった。その代わり、自由派が立憲君主制を復活させるための手段になった。1820年1月1日、アストゥリアス大隊の指揮官ラファエル・デル・リエゴは反乱を起こし、1812年憲法の復活を要求した。彼の軍勢はアンダルシア州の都市を行軍、市民の支持を得ようとしたが、現地住民の興味は薄かった。しかし、スペイン北部のガリシアでは反乱がおこり、それが瞬く間に全国に広がった。3月7日にはマドリードの王宮がフランシスコ・バレステロス(英語版)将軍率いる軍勢に包囲され、フェルナンド7世は3日後の3月10日に憲法の復活に同意した。 リエゴの反乱はイスパノアメリカ独立戦争に軍事、政治の両面で大きな影響を与えた。軍事的にはヌエバ・グラナダの奪回とペルー副王領の守備に必要だった大規模な増援が到着しなくなり、王党派の状況が悪化したため、各地で部隊全体が愛国派に寝返る事件が続出した。政治的にはスペイン政府のイスパノアメリカ反乱への態度が大きく変わった。新政府は反乱軍がスペインの自由主義のために戦っていると考え、スペイン憲法の擁護がそのまま和解につながると単純に考えたのであった。政府は憲法を実施し、海外県でもスペイン本国と同じように選挙を行った。また、軍部には停戦交渉を行うよう命じ、反乱軍が代議制政府に参加できると約束した。
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