独立の承認
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:29 UTC 版)
「フィリピンの歴史 (1946年-1965年)」の記事における「独立の承認」の解説
「マニラ条約 (1946年)」および「共和国の日 (フィリピン)(英語版)」も参照 アメリカ合衆国は1946年7月4日にフィリピンの独立を承認した。(「タイディングズ=マクダフィー法」として広く知られる)フィリピン独立法と併せてハリー・S・トルーマン大統領は正式にフィリピンの独立を承認する1946年7月4日の布告2695号を発した。 同じ日、アメリカ合衆国とフィリピンの代表は、両国間の「一般関係の条約」に調印した。この条約は1946年7月4日時点でのフィリピン共和国の独立承認とフィリピン群島に関するアメリカの主権の排除を規定した。 アメリカ合衆国は一部の主要基地を含む数十の軍事基地を残していた。加えて独立はアメリカ合衆国議会が可決した法律により制限された。例えばベル通商法(英語版)は「この条項に示すようにアメリカ合衆国製品と実質的な競争を行おうとしたり行いそうな」アメリカ合衆国の輸入制限がフィリピン条項に盛り込まれる可能性のある機能を規定した。更にアメリカ合衆国市民や企業が対等にフィリピンの鉱物や森林などの天然資源を採掘できることを保証するよう要求した。元老院金融委員会の公聴会でウィリアム・ロックハート・クレイトン経済担当副国務長官はこの法律を「明らかにこの国の基本的な対外経済政策と矛盾し」「明らかに真のフィリピン独立を保証する我が国の約束と矛盾する」と述べた。 フィリピン政府は選択の余地は殆どなく独立のためにこの条項を受け入れるしかなかった。議会はベル法が批准されなければ第二次世界大戦後の復興基金を保留すると脅していた。フィリピン議会は1946年7月2日に受容した。 独立後アメリカ合衆国はエドワード・ランスデールのような中央情報局の秘密諜報員を通じてフィリピンを管理し続けた。レイモンド・ボナー(英語版)などの歴史学者が言うようにランスデールはラモン・マグサイサイ大統領の生涯を支配し、このフィリピン指導者がフィリピン人のスピーチライターの原稿で演説した時には殴打までし、アメリカのエージェントも現職のエルピディオ・キリノを薬漬けにさせクラロ・レクト(英語版)元老院議員を暗殺することを話し合った。著名なフィリピン人歴史家ローランド・G・シンブランはCIAを「アメリカ帝国主義のフィリピンの秘密組織(英語版)」と呼んだ。
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