演習林から研究林へ(第4期)
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「京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林」の記事における「演習林から研究林へ(第4期)」の解説
前述のように、演習林の利用形態は再び研究中心に回帰し、林道の建設も1980年代までに一定の完成を見た。1990年代以降は伐採はほとんど行われず、1950年代以降の大規模伐採時期に植林された杉の人工林の保育が行われているほか、天然更新補助作業や広葉樹人工林の造成が試験的に行われている。また、揚水発電所の建設計画も京阪神都市圏の電力需要の伸びが鈍化したことや人々の自然環境に対する意識が変化していったことなどから、いつしか大きく採り上げられることもなくなった。 世論の自然環境に対する意識が従来の開発主体から環境の保全や育成の方向に変化するにつれて、健康維持に森林浴が注目されるようになったほか、中高年を中心に登山が静かなブームになってきた。また、森林軌道も日本に残る数少ない森林鉄道として、鉄道ファンに紹介されるようになった。それまでも京都市内中心部からほど近い所にある「秘境」的なイメージから、演習林がテレビや新聞で紹介されることはたびたびあったが、道路の整備が不十分であったことから、訪れる人も多くはなかった。それが1960年代以降国道162号や京都広河原美山線といったアクセスルートの整備が進み、1979年には京都広河原美山線のうち最後まで未開通であった佐々里峠の区間が開通、その後は道路狭隘部の拡幅やバイパスの開通が進められることによって走行環境が改善されていった。 こうして、演習林が人々に注目されるようになり、アクセスも改善されたことから、1990年代に入ると近畿地方、それも大都市近郊に残された大規模な自然林と清流を擁する演習林を訪れる一般入林者が漸増するようになった。この頃から地元と旅行会社が共同でツアーを企画し、団体での見学も行なわれている。また地域振興などを鑑みて、1993年には美山町の自然文化村と京都府青少年芦生の家のツアーについて、特例として利用者心得の順守を条件に車での入山が許可された。このような活動を受けて、1997年には芦生研究林のガイド養成講座が開設され、同年に16名のガイドが誕生した。これは、一般への説明などの観点から研究林側にも歓迎されている。 なお、1990年代後半から2000年代初頭の「みどりの日」には、毎日新聞で「芦生の森を世界遺産に」というキャンペーン記事が掲載されたこともあった。ところが、入林者の増加は下草の踏み荒らしやごみの放置、あるいはトイレの問題や水質汚染などといったオーバーユースの問題を招くこととなった。このような問題については、1998年に美山町自然文化村などとの間で研究林利用に関する覚書が交わされ、ガイド・車などの数に制限が設けられ、徐々に対策が取られている。一方で、被害に拍車をかけるように近年の暖冬傾向によってニホンジカの個体が増加、春から夏にかけて木々の若芽や下草を食べつくすという食害がひどくなっていった。オーバーユースや食害といった問題は、かつての大規模伐採とは異なった形で研究林(演習林)の荒廃を招くことから、大学側にとっても大きな問題である。なお、2000年前後には長治谷作業所が老朽化によって解体されている。 近年の大学改革の流れを受けて、京都大学においても学外研究施設の統合が実施され、芦生をはじめ北海道、和歌山、徳山に設置されていた演習林、白浜の瀬戸臨海実験所、串本の亜熱帯植物実験所、舞鶴の水産実験所がフィールド科学教育研究センターに統合改組され、従来の学部単位の施設から全学共同利用施設となった。名称も広く親しまれていた「芦生演習林」から「芦生研究林」に変更されて現在に至っている。
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