海軍兵学校長
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1945年1月10日、参内。昭和天皇から、レイテ沖海戦での功績に対するねぎらいの言葉を賜わる。 1月15日、海軍兵学校長に補される。栗田は最後の海軍兵学校長となった。この人事について、戦後に高木惣吉少将は「レイテの敗将を兵学校の校長に据えた」と批判した。これに対し、奥宮正武中佐は、「戦争の初期をのぞいて、第一線部隊の主要指揮官で敗将でなかったわが国の提督は皆無」と指摘している。 当時の兵学校生徒では、77期生の鎌田芳朗は、栗田について「敗軍の将ではない」と述べている。晩年の栗田の住まいの近くに住んでいた78期生の大岡次郎は、栗田を「不世出の大提督」「類希なる名将・勇将」と評している。寺崎隆治大佐は「大岡次郎さんのように、栗田健男さん名将、とか何とかで発表していますけども、あれはあんまり極端じゃないかと。見方によって色々な点があると思いますが。名将栗田健男というような点は、あまり僕なんかは賛成しないですね」と述べている。
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海軍兵学校長
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1942年(昭和17年)10月26日、井上は海軍兵学校長に補された。井上は10月31日にトラックから内地へ帰還した。11月5日午前10時、井上は宮城に参内して昭和天皇に拝謁、軍状を奏上し、菊花紋附木杯一組と金一封を下賜された。11月10日、広島県・江田島の海軍兵学校に着任。当時の心境を井上は「兵学校長になったのは自らの志望ではなく、また、自分の性格から考えても適任とは思われず、初めはそれほど気が進まなかった。しかし、着任して1か月ばかりの間に生意気盛りと思っていた生徒達の純真な気持や態度に打たれてきて 『よし、自分は生徒教育を一所懸命にやるぞ』 という気持に変ってきた」と回想する。井上の着任当時、兵学校の教官たちの間では親しみやすい豪放磊落な人柄だった草鹿の後任として、正反対の人柄の井上を敬遠する空気が強かった。しかし、井上が着任してから日が経つにつれ、井上が教育について深い理解と識見を持っていることを知り、井上の職務遂行に対する真摯で誠実な態度に親しく接するようになって、井上を畏敬し信服する者も増えた。 空母翔鶴運用長として珊瑚海海戦や南太平洋海戦を戦った福地周夫中佐が海軍兵学校教官として赴任し、翔鶴の塗料で描かれた『珊瑚海々戦翔鶴奮戦図』という絵を持参すると井上は感動し、額縁をつくらせて校長室に掲げた。井上は海軍次官に転出するまで『翔鶴奮戦図』を校長室に飾っていたという。 校長・教頭に次ぐ兵学校のナンバースリーである企画課長の小田切政徳中佐は、着任直後の井上から「柔道場2棟・剣道場2棟を建設中だが、4棟が隣接し過ぎており、1棟が火災を発すると、他棟に直ちに延焼するだろう。この配置は危険だ」「そもそも、こんな大道場を2棟づつも建てるより、剣道などは練兵場に出てやった方が良いだろう。見直しは出来ないか?」という旨の指摘を受けたが既に道場の基礎工事がほとんど終わり、建築資材の搬入と加工が始まっている状態であったので「この道場は4棟とも訓育上絶対必要であり、明年(1943年(昭和18年))の75期の入校に間に合わせて欲しい、と生徒隊から強く要請されているのです」という旨を答え、何とか井上の了解を得た。しかし、1944年(昭和19年)1月-3月に完成した4棟の大道場は、同年11月15日に第二剣道場の風呂場から発した火災で4棟とも全焼した。小田切は「もし、井上校長の着任がもう少し早く、(武道場の)土台建設以前であったなら、なんとか取り止めにするか、道場一対(剣道場・武道場一対)だけにするか、生徒隊を説得したと思います。今も心残りに思えてなりません」と回想している。小田切は、第四航空戦隊の先任参謀から、1942年(昭和17年)7月に兵学校に転じ、戦中の2年7か月を兵学校企画課長として過ごした。戦後の井上をその死に至るまで支え続け、井上の死後も井上の孫の丸田研一と交誼を保った。 井上は主立った教官20人ほどと会食し、井上が退席した後に教官たちが飲み直しを始め、校長官舎に電話して「校長も二次会へちょっと如何ですか」と誘ったが、井上は「そういう席へ私は出ない」とあっさり電話を切った。校内の雑用係の「ボーイ」(国民学校を卒業後に上級学校に進めなかった少年たちで、15-16歳程度だった)に、何とか教育の機会を与えたいと考え、希望者を募って20人くらいの班を2つ作り午後3時から5時まで2時間の授業を1日おきに実施した。課目は、井上が少年たちに一番大事と考えた数学と英語の2科目とし、講師には兵科予備学生出身の武官教官を充てた。戦後に、兵学校の元・文官教官は「ボーイ」達が授業を受けている時に井上がしばしば視察に来ていたこと、終業式で成績優秀者に与えられる英英辞典が、井上のポケットマネーで提供されていたことを語っている。その元・文官教官は戦後に広島大学を訪れた時にこの教育を受けた「ボーイ」の一人が、理科関係の助手を務めているのに出会った。
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