海軍兵力
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起源は1932年(民国21年)2月に発足した江防艦隊。陸軍として編成された軍閥が所有していた5隻の軍艦(小型の砲艦・警備艇)を編成したものだった。1932年(大同元年)4月15日公布の「陸海軍條例」(大同元年4月15日軍令第1号)により、満洲国海軍に編入。当初は主に河川部の国境警備を担当していたため、河川が凍結する冬季には、海軍兵も上陸して陸戦隊として勤務していた。1934年(康徳元年)11月の江防艦隊令(康徳元年11月24日軍令第8号)により正式に満洲国の江防艦隊が発足した。軍事顧問として満洲駐在の日本海軍である駐満海軍部が支援していたが、その後、日本海軍は江防艦隊から手を引き、海辺警察隊(後に海上警察隊へ改称)の支援に回ったため、1939年(康徳6年)2月の陸海軍條例中改正ノ件(康徳6年2月17日軍令第2号)により、江上軍と名を改めて陸軍の一部隊となった。但し、海軍ノ軍令ヲ援用スルノ件(康徳6年2月17日軍令第1号)により、陸軍の本務及び法令に抵触しない条項に限り、海軍の軍令は江上軍に関して一律に援用された。 このため、実質的な海上兵力は海辺警察隊が担っており、独自の航空隊も存在した。主力艦船は「海威」級で、日本海軍の駆逐艦「樫」が引き渡されたものである。この海辺警察隊は領海警備・密輸取締りなど沿岸警備隊的な組織であるが、終始日本海軍が支援しており、士官・技術者・航空隊パイロットは日本海軍出身の日本人が多かった。このように、海辺警察隊は沿岸警備隊というよりは海軍としての性格が強かった。 こうした状況の原因は、黄海以上に黒龍江等のソ連方面の河川が生命線と考えられていたこと、指導・支援の立場にあった関東軍と駐満海軍部の利害関係の対立があったこと等といわれる。
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海軍兵力
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1941年4月、クロアチア独立国海軍の初代司令官にジュロー・ヤクチンが任命された(1943年4月以降の司令官はエドガル・アンゲリ)。しかしながら、イタリアがクロアチア海軍艦艇に制限を課したため、海軍は少数の小型艦艇しか保有せず、事実上存在しないに等しかった。その後イタリアが降伏(1943年9月)すると、ドイツは拿捕したイタリア海軍艦艇をクロアチアに譲渡し、クロアチア海軍は初めて名実を伴った。その外、以前にイタリアが課していた50tという軍艦の排水量制限も解除された。 防空巡洋艦「ズナイム」 ズナイムはクロアチア海軍が保有した最大の軍艦。A・G・ヴェーザー/ブレーメン造船所で1900年6月25日に竣工。元々はドイツ帝国海軍の小型巡洋艦ニオベだったのを、1925年に除籍後、ユーゴスラビア王国が購入してダルマツィヤ(Dalmacija、ダルマチアの意)と改名、1926〜27年にかけて砲術練習艦に改造して用いていた。後1941年、イタリア海軍が捕獲してカッタロ(Cattaro、コトルの意)となり、1943年のイタリア降伏後、ドイツが再捕獲してニオベに戻し、すぐにクロアチア海軍に引き渡されてズナイム(Znaim、ズノイモの意)となった。なお、この艦は1943年12月19日、アドリア海でイギリス海軍の高速魚雷艇に雷撃され損傷、2日後に沈没した。更に1947年9月頃に浮揚解体されている。 このほかクロアチア海軍には20隻の艦艇があり、敷設艦キービッツ(旧イタリア海軍 Ramb III、Italian ship Ramb III)、水雷艇 TA48(旧オーストリア=ハンガリー帝国海軍78T/1913年竣工→旧ユーゴスラビア海軍T3:1945年2月20日英空軍機により、トリエステで撃沈)、武装商船G102、G104、KM級魚雷艇8隻(うち1艇はパルチザンに投降)。また、水雷艇T7(旧オーストリア=ハンガリー帝国海軍96F/1916年竣工→旧ユーゴスラビア海軍T7:1944年6月25日Muter島付近で、英海軍の高速魚雷艇659/662/670により破壊)、機雷補給艇Mosor(1920竣工→イタリア海軍 Pasman:1944年12月31日Istu島付近で座礁、1954年解体)があった。 河川艦隊は2隻の河川用モニター艦であるボスナ(旧オーストリア=ハンガリー帝国海軍ケレシュ(Körös)→旧ユーゴスラビア海軍モラヴァ: 1941年4月11日自沈→クロアチアによって浮揚→1944年6月触雷により沈没)、サヴァ(旧オーストリア=ハンガリー帝国海軍ボドログ→旧ユーゴスラビア海軍サヴァ:1941年4月12日自沈→クロアチアによって浮揚→1944年9月9日再自沈)が主力であり、他に6隻のモーターボート(このうち少なくとも3隻はパルチザンに投降)があった。 他に、10隻の雑役船があった模様である。
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