派生流派
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石州流 宗和流 - 金森可重の長男である金森宗和の創始。 この項目は、日本の文化に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 日本・ウィキプロジェクト 日本文化)。 この項目は、大阪府に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:日本の都道府県/大阪府)。
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派生流派
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住吉派 など 【春日派・土佐派歴代】 藤原基光(春日基光) 土佐派初世。11世紀の宮廷絵師。『続本朝画史』では藤原頼成(具平親王の落胤で、藤原伊祐の養子)の子。『地下家伝』『扶桑画人伝』『図画考』などでは藤原清隆(父は藤原隆時、祖父は藤原清綱、曾祖父は藤原頼成)の子。巨勢公望の門人に学ぶ。内匠頭に任じられる。子の珍海は、平安後期の画僧として知られる。 藤原隆能(春日隆能) 土佐派2世。『本朝画史』では藤原清隆(父は藤原隆時、祖父は藤原清綱、曾祖父は藤原頼成)の子。『地下家伝』では藤原清綱(藤原頼成の子)の子。宮中絵所預の始まり。正五位下、主殿頭に任じられる。『源氏物語絵巻』の作者とされる。 藤原隆親(春日隆親) 土佐派3世。『本朝画史』『地下家伝』では隆能の子。従五位下、備前守、伊勢守に叙任され、宮中絵所預となる。晩年には従四位下、中務少輔に受任される。 藤原光長(常盤光長・土佐光長) 土佐派4世。『扶桑画人伝』『図画考』では隆親の子、『本朝画史』では邦隆の子、『地下家伝』では経隆の子とされる。12世紀後半,後白河上皇のもとで,『年中行事絵巻』『伴大納言絵詞』を描く。 藤原経隆(土佐経隆) 土佐派5世。『扶桑画人伝』『図画考』では光長の子、『地下家伝』では隆親の子。『本朝画史』には父親の記載はない。宮中絵所預。従四位上まで昇叙し、土佐権守、中務少輔を歴任する。土佐派の由来となる”土佐守”のはじまり。鎌倉中期の絵巻『西行物語絵巻』は経隆の作と伝わる。 藤原邦隆(土佐邦隆) 土佐派?世。経隆の長子。宮中絵所預となる。鎌倉末期の絵巻『法然上人絵伝』の作者とされる。 藤原長隆(土佐長隆) 経隆の次子。一説には『蒙古襲来絵詞』の作者とされる。 藤原吉光(土佐吉光) 土佐派?世。経隆の第三子。宮中絵所預。鎌倉末期の絵巻『法然上人絵伝』の作者の1人とされる。 藤原光秀(土佐光秀) 土佐派?世。邦隆の子。吉光に養育される。従五位下、飛騨守に任じられる。 藤原光正(土佐光正) 土佐派?世。吉光の次男。鎌倉時代末期の画家。光秀の嗣子となり宗家を継承。越前守となる。 藤原隆相(土佐隆相) 長隆の長子。一説には『伊勢新名所絵歌合』『男衾三郎絵詞』とされる。 藤原長章(土佐長章) 土佐派?世。長隆の次子。鎌倉時代末期から南北朝の画家。光正の嗣子となり宗家を継承し、従五位下、越前守(一説に越前権守)に任じられる。 藤原光顕(土佐光顕) 土佐派?世。光正の子。南北朝の画家。宗家を継ぎ宮中絵所預となり、従五位下、越前守に任じられる。 藤原行光(土佐行光) 土佐派?世。延文六年(1361)宮中絵所預となる。従四位下にして左近衛将監、大蔵少輔を歴任。 土佐光重 土佐派?世。行光の長子。明徳元年(1390)宮中絵所預となる。正五位下、越前守に任じられる。 土佐行秀 土佐派?世。行光の次子。応永二十年(1413)宮中絵所預となる。正五位下から従四位上に昇叙し、修理亮、大蔵少輔等を歴任。 土佐光国 土佐派?世。永享5年(1433)宮中絵所預となる。応永21年(1414)の「融通念仏縁起絵巻」作者の1人とされる。従五位下、備後守。剃髪をして法眼。 土佐広周 土佐派9世。行秀の次子。永享十一年(1439)宮中絵所預となる。後に室町幕府に渡り絵師職として活躍する。彼の子で後継者の行定は延徳二年(1491)を最後にその消息は途絶え、広周の幕府関係の料所は11世光信に継承された。従五位上弾正忠に叙任。 土佐光弘 土佐派10世。行秀の長子。嘉吉三年(1443)宮中絵所預となる。従五位下中務丞に叙任。 土佐光信 土佐派11世。光弘の子。文明元年(1469)宮中絵所預となる。延徳三年(1491)ごろに幕府絵師職を継承し土佐派の家系を統一、土佐派を確立させた。正五位下から従四位下に昇叙し、右近衛将監、刑部大輔等を歴任。 土佐光茂 土佐派12世。光信の子。従五位下から従四位下に昇叙し、左近衛将監、刑部大輔等を歴任。 土佐光元 土佐派13世。光茂の長子。従五位下左近衛将監。織田信長に仕え、羽柴秀吉の但馬攻めの陣中にて戦死。享年40とも。 土佐光吉 土佐派14世。光茂の次子とされるが、門人説が有力。従五位下左近衛将監。 土佐光則 土佐派15世。光吉の子。無位無官。 土佐光起 土佐派16世。土佐派中興の祖。元和3年(1617)、光則の子として生まれる。承応3年(1654)途絶していた宮中絵所預となり、土佐家を再興。従五位下左近衛将監。出家して法橋、法眼等を歴任。元禄4年(1691)9月25日死去。 土佐光成 土佐派17世。光起の長子。正六位下から従五位下に昇叙し、左近衛将監、刑部権大輔等を歴任。 土佐光祐 土佐派18世。延宝3年(1675)、光成の子として生まれる。正六位下左近衛将監。宝永7年(1710)7月9日死去 土佐光芳 土佐派19世。光祐の子。従六位下から正五位下に昇叙し、右近衛将監、左近衛将監、大蔵少輔、弾正少忠、左京少進等を歴任。 土佐光淳 土佐派20世。享保19年(1734)、光芳の子として生まれる。家督を継ぎ、従六位上から従五位下に昇叙し、左近衛将監、内蔵少属、内蔵大允等を歴任。明和元年(1764)12月6日死去 土佐光時 土佐派21世。光淳の子。従六位上から従四位下に昇叙し、左近衛将監、伯耆守等を歴任。 土佐光禄 土佐派22世。寛政6年(1794)、光時の子として生まれる。従六位上から従四位下に昇叙し、上野介、左近衛将監、三河守等を歴任。 土佐光文 土佐派23世。光芳の子光貞の光孚の次男。宗家を継ぐ。従六位上から従五位上に昇叙し、肥後介、左近衛将監等を歴任。嘉永2年(1849)9月16日死去。 土佐光章 土佐派24世。嘉永元年(1848)、光文の子として生まれる。伊予介、左近衛将監等を歴任。明治8年(1875)7月4日死去。 土佐光一 土佐派25世。明治5年(1872)、光章の長男として生まれる。東京美術学校を卒業。明治27(1894) 、第3回青年絵画共進会展で入選。明治40年から昭和10年まで旧制県立静岡中学校(現、県立静岡高等学校)に勤務。昭和15年。第6回静岡美術協会展覧会の委員長を務める。太平洋画会の会員となり、太平洋美術学校の講師を務める。昭和40年(1965)7月29日死去。 【別家】 土佐光貞 別家初代。本家十九代土佐光芳の次子。別家を創設する。従六位上から従四位上に昇叙し、内匠大属、左近衛将監、土佐守等を歴任。 土佐光孚 別家二代。光貞の子。従六位上から正五位下に昇叙し、豊前介、伊勢守、等を歴任。 土佐光清 別家三代。光孚の子。従六位上から正五位下に昇叙し、豊前介、伊勢守、土佐守等を歴任。
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