景気の推移
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1964年東京オリンピック翌年(1965年)の証券不況(構造不況、昭和40年不況)は、それまでの第二次世界大戦後の不況のように、政策金利の引き下げなどの金融緩和による金融政策だけでは改善せず、政府は補正予算で第二次世界大戦後初の建設国債の発行を閣議決定し、翌1966年に発行した。これと前後して、景気は回復し始め、「いざなぎ景気」が始まった。 1970年の八幡製鐵と富士製鐵の合併による新日本製鐵(新日鉄)の誕生など、貿易や資本の自由化への対応のために、国際競争力の強化を目指して規模拡大のための企業の大型合併が多数実現した。トヨタ・カローラや日産・サニーといった低価格の大衆車の発売によってマイカーブームが起こり、東京オリンピック(1964年)を機にカラー放送が本格化したことからカラーテレビの普及率が急速に高まった。 所得水準の向上によって、エアコン(クーラー)の購入も増加し、車 (car)、エアコン (cooler)、カラーテレビ (color TV) が、いわゆる3C(新・三種の神器)と呼ばれ、消費の大幅な伸びも見られた。いざなぎ景気の間に日本経済は大きく拡大し、世界第二の経済大国となった。 これ以前の景気拡大では、国際収支の悪化が起こり、外貨準備の減少を防止するために金融政策の引締めによる景気抑制が必要となるという「国際収支の天井」が景気拡大の制約条件だった。しかし1960年代半ばになると国際収支(経常収支)は黒字基調となって、景気拡大の制約条件ではなくなってきた。1969年9月には公定歩合が6.25%にまで引き上げられているが、同年の経常収支は2119(百万ドル)の黒字であった。 いざなぎ景気は、景気過熱による賃金・物価の上昇加速を抑制しようとした金融引締めと設備投資の行き過ぎが引き起こした投資循環によって後退に向かったと考えられている。 神武、岩戸景気を上回る景気である事から、さらに時代を遡って伊邪那岐尊の名をとって「いざなぎ景気」と命名した。
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景気の推移
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なべ底不況の景気後退で停滞的傾向の強まった繊維工業や石炭海運産業等と、景気後退をほとんど受けなかった電気機械・精密機械・自動車など、あるいは影響を受けたものの回復の速かったいわゆる成長産業(鉄鋼業・重化学工業等)との格差が拡大し産業の高度化が進行した。 好景気によって若年サラリーマンや労働者の収入が急激に増加し、国民の間に「中流意識」がひろがった。企業はこの頃から技術・管理・販売部門の拡大に乗りだしたが、いわゆるホワイトカラー層の増加と賃金の大幅な上昇が大企業のサラリーマンを中流層に押しあげていった。中流層は大量消費社会のリード役を果たした。 中流層の増大と消費ブームの到来は、生産と消費に介在する流通システムにも大きな変革を促した。大量生産・大量消費の時代には、従来の伝統的な流通チャネルだけでは、適応できなくなった結果、食料品・繊維製品・台所用品・化粧品・医薬品などの小売市場に、スーパーマーケットなどの大型量販店が出現した。スーパーを代表とする大型量販店の出現は、「生産者→問屋→小売」という、従来の流通経路に革命的な変化をもたらしたという意味で流通革命と呼ばれた。 投資が活発となり景気は好調となったが、1960年度末になると徐々に好景気も末期症状を見せるようになり、それまで安定していた消費者物価が上がり始めて、1961年12月頃に岩戸景気は終わりを迎えた。 なお、岩戸景気の後の日本経済は短期間(10か月)の不景気(転型期不況、転換型不況、昭和37年不況)を経て、1964年東京オリンピックによる好景気、いわゆる「オリンピック景気」に突入した。
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