日本の参加と日本特別掃海隊
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「朝鮮戦争」の記事における「日本の参加と日本特別掃海隊」の解説
詳細は「日本特別掃海隊」を参照 日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、特別掃海隊として派遣された海上保安官や、海上輸送や港湾荷役に従事する民間人など、総計で8,000人以上の日本人が朝鮮半島およびその周辺海域で活動し、開戦からの半年に限っても56名が命を落とした。 開戦直後から、北朝鮮軍は機雷戦活動を開始していた。アメリカ海軍第7艦隊司令官は9月11日に機雷対処を命じたが国連軍掃海部隊は極僅かであったため、元山上陸作戦を決定した国連軍は10月6日、アメリカ極東海軍司令官から山崎猛運輸大臣に対し、日本の海上保安庁の掃海部隊の派遣を要請。10月7日、第一掃海隊が下関を出港した。元山掃海作業では10月12日、眼前でアメリカ軍掃海艇2隻が触雷によって沈没し、敵からの砲撃を回避しながら、3個の機雷を処分する。10月17日に日本の掃海艇のMS14号が触雷により沈没し、行方不明者1名及び重軽傷者18名を出した。12月15日、国連軍のアメリカ極東海軍司令官の指示により解隊されるまで特別掃海隊は、46隻の掃海艇等により、元山、仁川、鎮南浦、群山の掃海作業に当たり、機雷27個を処分し、海運と近海漁業の安全確保、国連軍が制海権を確保することとなった。戦地での掃海活動は、戦争行為を構成する作戦行動であり、事実上この朝鮮戦争における掃海活動は、第二次世界大戦後の日本にとって初めての参戦となった。 特別掃海隊に対して北朝鮮外相朴憲永は非難、ソ連も国連総会で非難した。李承晩韓国大統領も1951年4月、「万一、今後日本がわれわれを助けるという理由で、韓国に出兵するとしたら、われわれは共産軍と戦っている銃身を回して日本軍と戦う」と演説で述べた。一方、日本側も掃海隊員を上陸させないよう指示していたが、やむをえない事情で元山に上陸すると、韓国兵に見破られ問いただされた。隊員が理由を話すと、韓国兵は日本語で「ご苦労さんです。どうです一杯」と歓迎したという。 米軍発注の朝鮮特需に、太平洋戦争で船舶を失った多くの船員たちは恩恵にあずかれず、仕事が無かった。GHQの在日米海軍司令部・在日米海軍部局の日本商船管理局の募集に多くの船員たちは応じた。GHQが日本人船員を募集した理由は、戦前、日本領だった朝鮮半島仁川海岸の地理にくわしく、国連軍の戦車揚陸艦(LST)運航に必要だったからであった。仁川上陸作戦の内部資料には、朝鮮半島の地形を熟知する日本人が運航するLSTが作戦に大きく貢献したと記され、仁川上陸作戦に参加した元海兵隊員のロバート・ワイソンは「日本人は朝鮮半島には何度も行っているから、海岸の地形について非常に詳しかったです。彼らは敵から攻撃を受けながら、ゲートを開き、荷下ろしを必死で担いました。我々は協力し合い、作戦を成功させたのです」とLSTの運航を担った日本人の存在なしには、仁川上陸作戦の成功は難しかったと述べている。米国立公文書館海軍資料によると、LSTの約6割30隻以上が日本人によって運航され、日本人約2000人が運航従事しており、GHQと外務省との間で交わされた通信記録などの資料から分かった日本人船員の死者は少なくとも57人に及ぶ。
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