日本におけるフェンシング
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 04:55 UTC 版)
「フェンシング」の記事における「日本におけるフェンシング」の解説
世界的、特に発祥の地ヨーロッパでは競技人口の多いスポーツの一つだが、日本ではあまり人気がなく、『uhbスーパーニュース』によると日本においては日本全国で1万人ほどしかいない。フェンシングの部活動を置いている学校も殆ど無く、ある程度の規模の学校に剣道部が大抵置かれているのとは対照的である。 日本で最初にフェンシング競技が導入されたのは、西洋の近代軍人が習得する教養としての剣技を日本陸軍が導入しようと図ったのが最初であり、1884年11月に西郷従道陸軍卿の命により、陸軍戸山学校において教官候補の選抜が始まった記録が残されている。当初の指導はフランス陸軍から派遣された教官によって行われた。 1935(昭和10)年にフランス留学経験をもつ岩倉具清(岩倉具綱の孫)がアルゼンチン臨時代理公使アルトゥーロ・モンテネグロらの後援を得て「日本フェンシング倶楽部」を設立し、その指導により同年法政大学に、翌1936年慶應義塾大学にそれぞれフェンシング部が創設された。同年ベルリン五輪の総会で次期開催地が東京に決まったことにより、「大日本フェンシング協会」(会長・曽我佑邦子爵、理事長・本間喜一。現・日本フェンシング協会)が発足し、東京五輪の競技種目に採用されたことにより各大学でフェンシング部創設が相次いだ(東京五輪は1940年に開催予定だったが戦争により中止となった)。 1937年、剣道家の森寅雄は剣道普及のため渡ったアメリカでフェンシングを学び始め、わずか6か月の練習で全米選手権を準優勝した。オリンピックでメダルを取ることを期待されたが、太平洋戦争勃発により出場はかなわなかった。 太平洋戦争で日本が敗戦し、連合国軍(GHQ)に剣道を禁止された際、代替する競技として考案された撓競技(しないきょうぎ)は、フェンシングを模した防具が使用された。 2008年、北京オリンピック男子フルーレ個人競技で太田雄貴が銀メダルを獲得し、フェンシング競技に於いて日本人初のオリンピックメダルを獲得した。また、同オリンピックでは女子フルーレ個人競技で菅原智恵子が7位に入賞しており、実はこれが日本人選手のフェンシング個人種目における初の入賞でもあった(団体種目では1964年東京オリンピックで男子フルーレ団体競技で4位に入賞している)。 2015年、モスクワでの世界選手権男子フルーレ個人で太田が金メダルを獲得した。フェンシング競技に於いて五輪も含めた世界大会で日本人が優勝したのは初めてである。2021年に開催された2020年東京オリンピックでは、男子エペ団体においてフェンシングで日本初の金メダルを獲得した。 高校においては剣道ほど普及しておらず、指導者も少ないためフェンシング部がない高校も多い。このため、クラブチームで小中学生や社会人と共に練習する生徒も多い。1980年モスクワオリンピックフェンシング代表だった千田健一(千田健太の父)が監督を務める宮城県気仙沼高等学校や部活奨学金を用意している仙台城南高等学校などの宮城県勢、岐阜県立羽島北高等学校が強豪である。 大学においては、全日本学生フェンシング選手権大会、全日本大学対抗選手権大会、全日本学生個人選手権大会がある。男子は法政大学、中央大学、早稲田大学、日本体育大学、日本大学、専修大学、同志社大学、朝日大学など。女子は日本体育大学、早稲田大学、法政大学、日本女子体育大学、東京女子体育大学、専修大学、立命館大学、同志社大学などで盛んである。 大半の選手は実業団、大学職員、公務員など兼業が主流であるが、三宅諒のように個人でクラブチームを立ち上げる有力選手もいる。2009年4月にNEXUSが実業団を立ち上げている。 日本におけるフェンシングを扱った作品としては、映画『リオの若大将』(1968年公開)がある。また、フェンシング経験者の高城高は複数の小説を執筆している。
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