技法と制作年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:14 UTC 版)
現状の額装繡帳は、上下3段、左右2列、計6枚の絹布を貼り合わせたもので、各絹布には飛鳥時代の原繡帳と鎌倉時代の新繡帳の断片が脈絡なく貼り付けられている。ここでは説明の都合上、刺繡断片のある位置を「上段右」「下段左」のように表すこととする。 現状の繡帳を見ると、たとえば上段左の亀形や月(中に兎がみえる)、中段右や中段左の区画の人物群像の一部などは形の崩れがなく、刺繡糸の色も鮮やかに残っている。これに対して、たとえば下段左の建物とその内部の人物を表した部分などは色糸がほつれ、褪色し、図柄が定かでない。染織史家の太田英蔵らの調査によれば、前者の色彩鮮やかな部分が飛鳥時代の原繡帳の断片であり、後者、すなわち糸がほつれ褪色している部分が鎌倉時代の新繡帳の断片である。 刺繡が行われている台裂(だいぎれ)には、羅(絹糸を用いた綟り織の一種)、綾、平絹(平織の絹)の3種がある。このことを最初に指摘したのは明治・大正期の美術史家・中川忠順(ただより)であり、昭和期に入って太田英蔵が下地裂と制作年代の関係、用いられている刺繡技法の種類などについて詳細な研究を発表した。太田によれば、飛鳥時代と推定される、台裂に紫色の羅が用いられている部分では、人物の服装、蓮弁、銘文の漢字など、全てのモチーフは輪郭線を刺繡で表し、その内側を別色の糸で密に繡い詰めている。糸は撚りが強く、中心部まで深く染められており、刺繡は返し繡という単純な技法(一針繡い進めると、少し後退した位置から針を布の表面に出し、また一針繡い進めては後退する、という作業を繰り返す繡い方)のみが使用されている。撚りの強い糸を使い、単一の技法(この場合は返し繡)で密に繡い詰めるのは飛鳥時代刺繡の特色で、法隆寺献納宝物等の繡仏や、藤ノ木古墳出土の刺繡にも同様の技法がみられる。これに対し、正倉院宝物などにみられる奈良時代の刺繡は、撚りのない平糸を用い、刺繡も多種の技法を使い分けるのが特色である。 一方、鎌倉時代と推定される、台裂に綾または平絹を用いた部分には、平繡、繧繝刺(うんげんざし)、朱子刺、駒繡、文駒刺(あやこまさし)、束ね繡、長返し繡、纏い繡、表平繡いの9つの技法が用いられている。さまざまな刺繡技法を駆使しているが、その分、糸が台裂から浮き上がる部分が多く、染料が糸の中心部までしみ込んでいないものが多い。 現存の繡帳には、文字の入った亀形が4つ残されている(別に保管される断片を含めれば5つ)。このうち「部間人公」の4文字の入った亀形のみは色が鮮やかで、字画も細部まで鮮明であるのに対し、他の3つの亀形は形が崩れ、色もあせている。これも、前者が飛鳥時代、後者が鎌倉時代の制作である。 以上のように、現存する天寿国繡帳の古い部分は聖徳太子(622年没)の没後まもない頃の制作とみなすのが通説となっているが、これには異説もある。東野治之は、繡帳銘文は太子の没後かなり時間が経ってから作成されたものだとする。その論拠の一つは、銘文中の天皇の呼称である。銘文では推古天皇をトヨミケカシキヤヒメ(等已弥居加斯支移比弥)と呼称しているが、東野はこの呼称は推古に対する和風の諡号(しごう、贈り名)であって、この呼称の使用は推古の没した628年以降のものであるとする(これについては、「トヨミケカシキヤヒメ」は生前から用いられていた尊称だとする意見もある)。今一つの論拠は銘文の文体・内容である。東野によれば、繡帳銘文は橘大女郎と推古天皇の発言を直接話法で記すなど、一般的な造像銘の文体とは異なり、縁起文のような体裁をとっていることから、太子没後かなり時間が経ってからの作成であるという。東野は、推古天皇の指示により東漢末賢(やまとのあやのまけん)らが制作した原繡帳の存在は否定しないが、現存の繡帳は法隆寺の焼失(670年)・再建に際して再制作されたものと位置づけ、「法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳」(天平19年・747年成立)に記載される天武天皇(在位673 - 686年)が寄進した「繡帳二張」が、現存の繡帳にあたるとしている。
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