戊辰戦争とその後とは? わかりやすく解説

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戊辰戦争とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 18:20 UTC 版)

小笠原長行」の記事における「戊辰戦争とその後」の解説

将軍家茂の後継問題に当たり、長行板倉勝静と共に慶喜次期将軍推し12月慶喜15代将軍に就任する慶喜政権においては外交担当老中として欧米公使との折衝に当たり、慶應3年6月には外国事務総裁任じられた。 慶應4年1868年)、大政奉還の後、上方新政府旧幕府との緊張が高まる中、江戸にあった長行非戦主張するが、鳥羽・伏見の戦い勃発戊辰戦争が起こる。唐津藩新政府軍討伐対象となったが、藩主小笠原長国世嗣長行との養子関係を義絶して新政府降伏した大坂から逃げ帰り恭順意を決していた将軍慶喜対し長行徹底抗戦主張する遠ざけられ2月10日老中辞任した3月国元唐津から帰国命令が来ると、長行江戸逐電し奥州棚倉へと向かった4月江戸城無血開城し、その後の上野戦争で幕府勢力敗北し新政府軍会津へ迫ると、長行棚倉から会津入り新政府軍抗戦する奥羽越列藩同盟結成される板倉勝静と共に参謀となり、白石赴く会津戦争において会津藩敗れると仙台から榎本武揚軍艦開陽丸乗船し箱館向かったが、榎本箱館政権には参画ていない明治2年1869年5月箱館戦争旧幕府勢力敗れると、長行アメリカ汽船脱出潜伏して行方不明となった明治5年1872年4月東京戻り7月新政府自首したが、小笠原長国らの赦免運動もあって8月4日に赦されている。その後東京駒込動坂の小邸に隠棲し、明治9年1876年11月従五位叙任され明治13年1880年6月従四位叙任された。明治24年1891年1月25日駒込自邸死去した辞世の句は「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢夢ならぬ夢」。 墓所は元は天王寺東京都台東区)の谷中霊園であったが、後に子の長生により日蓮宗の妙祐山幸龍寺世田谷区北烏山)に改葬された。長国の跡を継いだ長生子爵授爵し、海軍中将進んだ養父長国から養子関係を絶縁されても、最後まで譜代家臣として幕府忠誠誓った新政府最後まで抵抗したためか、長行唐津藩藩主として認めていない史料もある。

※この「戊辰戦争とその後」の解説は、「小笠原長行」の解説の一部です。
「戊辰戦争とその後」を含む「小笠原長行」の記事については、「小笠原長行」の概要を参照ください。

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