戊辰戦争とその後
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将軍家茂の後継問題に当たり、長行は板倉勝静と共に慶喜を次期将軍に推し、12月に慶喜が15代将軍に就任する。慶喜政権においては、外交担当老中として欧米公使との折衝に当たり、慶應3年6月には外国事務総裁に任じられた。 慶應4年(1868年)、大政奉還の後、上方で新政府と旧幕府との緊張が高まる中、江戸にあった長行は非戦を主張するが、鳥羽・伏見の戦いが勃発、戊辰戦争が起こる。唐津藩も新政府軍の討伐対象となったが、藩主・小笠原長国は世嗣・長行との養子関係を義絶して新政府に降伏した。大坂から逃げ帰り恭順の意を決していた将軍慶喜に対し、長行は徹底抗戦を主張するが遠ざけられ、2月10日に老中を辞任した。3月、国元の唐津から帰国の命令が来ると、長行は江戸を逐電し、奥州棚倉へと向かった。4月、江戸城は無血開城し、その後の上野戦争で幕府勢力は敗北し、新政府軍が会津へ迫ると、長行は棚倉から会津へ入り、新政府軍に抗戦する。奥羽越列藩同盟が結成されると板倉勝静と共に参謀となり、白石に赴く。会津戦争において会津藩が敗れると仙台から榎本武揚の軍艦開陽丸に乗船し箱館へ向かったが、榎本の箱館政権には参画していない。明治2年(1869年)5月、箱館戦争で旧幕府勢力が敗れると、長行はアメリカ汽船で脱出潜伏して行方不明となった。 明治5年(1872年)4月に東京に戻り、7月に新政府に自首したが、小笠原長国らの赦免運動もあって8月4日に赦されている。その後は東京駒込動坂の小邸に隠棲し、明治9年(1876年)11月従五位に叙任され、明治13年(1880年)6月、従四位に叙任された。明治24年(1891年)1月25日、駒込の自邸で死去した。辞世の句は「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」。 墓所は元は天王寺(東京都台東区)の谷中霊園であったが、後に子の長生により日蓮宗の妙祐山幸龍寺(世田谷区北烏山)に改葬された。長国の跡を継いだ長生は子爵を授爵し、海軍中将に進んだ。 養父・長国から養子関係を絶縁されても、最後まで譜代の家臣として幕府に忠誠を誓った。新政府に最後まで抵抗したためか、長行を唐津藩の藩主として認めていない史料もある。
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