戊辰戦争と廃寺(1868-)
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「英巌寺」の記事における「戊辰戦争と廃寺(1868-)」の解説
慶応4年4月19日(1868年5月11日)、秋月登之助と土方歳三が指揮した旧幕府軍の前軍は宇都宮城下の南東から攻め入り、宇都宮城を落城させた(戊辰戦争・宇都宮城の戦い)。新政府軍に就いていた宇都宮藩は城に放火して退却し、家老の県信輯率いる主力隊と藩主・戸田忠恕ら数名に分かれて館林城下へ向かった。宇都宮藩と館林藩が姻戚関係にあったためである。この戦いの際、旧幕府軍は英巌寺に放火し、堂宇は倉庫を残してすべて焼失した。この際、庫裏に幽閉されていた元老中の板倉勝静と息子の勝全が旧幕府軍によって救出された。板倉は旧幕府軍に与し、「家康公に対して恐れ多い」という理由で大鳥圭介に日光を戦場としないよう申し入れた後、箱館まで戦った。英巌寺は焼失したまま廃寺となり、報恩寺へ統合された。英巌寺本尊の釈迦如来は、報恩寺に安置された。 宇都宮城の戦いの後、宇都宮藩は城を奪回したが、藩主・忠恕は度重なる苦難ゆえに病にかかり、奪回から2か月後に亡くなった。忠恕の葬儀は英巌寺の跡地で神葬祭にて執行され、後に戸田忠友が初代神官を務めた栃木県護国神社の祭神として祀られた。 1875年(明治8年)、寺跡に鉄製の鳥居が建てられた。1908年(明治41年)、藩主の墓が置かれていた松源寺が東京府中野町(現・東京都中野区上高田一丁目)へ移転することになったため、同年4月に英巌寺跡へ改葬された(合葬墓碑)。寺跡はウメの名所として親しまれた一方で荒廃が進んだが、1971年(昭和46年)に「宇都宮城主戸田家の墓所」として宇都宮市の文化財に指定された。なお、周辺の地名「花房」は、英巌寺の「英」の字を「はなぶさ」と訓読みし、「花房」という漢字を当てて命名された。
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