戊辰戦争と廃寺とは? わかりやすく解説

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戊辰戦争と廃寺(1868-)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 05:13 UTC 版)

英巌寺」の記事における「戊辰戦争と廃寺(1868-)」の解説

慶応4年4月19日1868年5月11日)、秋月登之助土方歳三指揮した旧幕府軍の前軍宇都宮城下南東から攻め入り宇都宮城落城させた(戊辰戦争宇都宮城の戦い)。新政府軍に就いていた宇都宮藩は城に放火し退却し家老の県信輯率い主力隊と藩主戸田忠恕数名分かれて館林城下へ向かった宇都宮藩館林藩姻戚関係にあったためである。この戦いの際、旧幕府軍は英巌寺放火し堂宇倉庫残してすべて焼失したこの際庫裏幽閉されていた元老中の板倉勝静と息子の勝全が旧幕府軍によって救出された。板倉旧幕府軍に与し、「家康公に対して恐れ多い」という理由大鳥圭介日光戦場としないよう申し入れた後、箱館まで戦った英巌寺焼失したまま廃寺となり、報恩寺統合された。英巌寺本尊釈迦如来は、報恩寺安置された。 宇都宮城の戦いの後、宇都宮藩は城を奪回したが、藩主忠恕度重なる苦難ゆえに病にかかり、奪回から2か月後に亡くなった忠恕葬儀英巌寺跡地神葬祭にて執行され、後に戸田忠友初代神官務めた栃木県護国神社祭神として祀られた。 1875年明治8年)、寺跡鉄製鳥居建てられた。1908年明治41年)、藩主の墓が置かれていた松源寺東京府中野町現・東京都中野区上高田一丁目)へ移転することになったため、同年4月英巌寺跡へ改葬された(合葬墓碑)。寺跡ウメ名所として親しまれ一方で荒廃進んだが、1971年昭和46年)に「宇都宮城主戸田家の墓所」として宇都宮市文化財指定された。なお、周辺地名花房」は、英巌寺の「英」の字を「はなぶさ」と訓読みし、「花房」という漢字当てて命名された。

※この「戊辰戦争と廃寺(1868-)」の解説は、「英巌寺」の解説の一部です。
「戊辰戦争と廃寺(1868-)」を含む「英巌寺」の記事については、「英巌寺」の概要を参照ください。

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