幕末・明治初期とは? わかりやすく解説

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幕末・明治初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 02:46 UTC 版)

無双直伝英信流」の記事における「幕末・明治初期」の解説

山内容堂および板垣退助が、これらを修得したことが知られる。 容堂は、谷村自雄(亀之丞)に就いて熱心に居合修得した板垣退助が、かつて語ったものによると「土佐居合槍術剣術附随した居合ではなく専門居合術であって大森流、長谷川流などと称する抜刀の型があった。長谷川流の奥居合というものが十二本あったが、容堂公は、それを能く好んで抜き七日七夜わたってこの居合稽古をした。御相手をした臣下の者の多くはみな疲労倒れこの間通して連続御相手を全う出来た者は、二人三人しかなかった」と。特に板垣退助は、大叔父谷村亀之丞自雄(第15代宗家)より無双直伝英信流居合習い若くして後継者一人目され弥太夫政敬(第14代宗家)の孫娘を、最初の妻迎えるがのち離縁。(離縁された妻は、林家戻り小笠原茂常(大四郎)の五男・茂平婚し茂平入婿となり姓を継ぐ。戊辰戦争時の軍監林茂平(亀吉)がその人である。 第16代五藤孫兵衛正亮は、高知城下入新町居住した土佐藩士(馬廻格・上士)で、第15代谷村亀之丞自雄のもとで居合術学び、その奥儀極めたが、明治維新以後廃刀令煽りを受け剣道居合衰退し、また特に長谷川英信居合江戸時代御留流(おとめりゅう)」として藩外不出で、町中道場無く藩校一部伝えられたのみで、これを習った者が元々限られていたのに加えて廃藩置県後は藩の庇護解かれ存続の危機にあった長谷川英信流の宗家谷村家親族であった板垣退助伯爵は、1893年(明治26年)、帰高の際に、高知市材木町にあった武学館」に招かれ長谷川英信居合術松嶋棒術由来功績に関する弁舌行った。さらに板垣は、これらの武術後世継承させるためには、適切な師範道場が必要となることを訴えて適任者議した詮議結果居合無双直伝英信流第15代谷村亀之丞自雄のもとで学んだ五藤孫兵衛正亮、棒術新市町横田七次が最も堪能であるとの意見を得、板垣は「五藤氏のことなら元より良く存じをり候…」と、五藤横田両氏子弟育成の件を直接相談赴いた両氏より快諾得た板垣は、さらに高知素封家竹村与右衛門援助を受けその敷地一角道場建設させ、これらの振興つとめた五藤正亮名実ともに居合術普及努め子弟育成その後、正亮の居合修養深き知った高知県第一中学校(のち「高知県立高知城東中学校」と改称, 現校名高知県立高知追手前高等学校)校長渋谷寬は「居合術身心鍛錬特効がある」として正亮を学校招聘生徒たち指導させた。1898年(明治31年)歿。享年64歳五藤正亮歿後は、谷村亀之丞自雄の兄の孫にあたる谷村自庸(樵夫)が、これを継いだが、ほどなく1905年(明治38年)、谷村自庸も歿したためこの後大江正路継いだ宗家継承としては「谷村亀之丞自雄-谷村彜吉自脩-五藤正亮-谷村自庸-大江正路」と成されたが、谷村彜吉自脩はわずか3ヶ月谷村自庸7年で歿したため、現在は世代数に数えられていない

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幕末・明治初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:32 UTC 版)

対馬」の記事における「幕末・明治初期」の解説

江戸時代後期1861年万延2年)にはロシア軍艦ポサドニック号が浅茅湾投錨し対抗したイギリス軍艦も測量名目同じく吹崎沖に停泊して一時占拠するロシア軍艦対馬占領事件起こった。ポサドニック号は崎を占拠し兵舎工場練兵場などを建設して半年余にわたって滞留して藩主宗義和土地貸与求めた対馬藩は対応に苦慮したが、5月には幕府外国奉行小栗忠順派遣され7月イギリス公使オールコック干渉もあってロシア軍艦が退去した。崎には、現在もロシア人掘った井戸のこっている。 こののち対馬藩1862年文久2年)、長州藩とのあいだに同盟成立した1863年文久3年)には孝明天皇より対馬藩に対して攘夷勅許御沙汰書下っている。 1864年元治元年)、佐幕派藩主宗義達叔父にあたる勝井員周(勝井五八郎)が藩内で主導権握り家老大浦教之助はじめとする勤皇派100余名粛清するという大事件起こっている。勤皇派平田大江は、これに対し、尽義隊を結成して抵抗運動繰り広げた藩主義達は翌1865年慶応元年)、まずは勝井五八郎を、続いて平田大江殺害して、ようやく事件終息させた。この一連のできごと勝井騒動甲子の変)といい、対馬全体では200名以上が犠牲になった。 義達は、1868年明治元年)には戊辰戦争参加し、藩兵を率いて東上し大坂まで軍を進めた1869年明治2年)、宗義達版籍奉還おこない、新藩制により厳原藩改称されて、厳原藩知事となった。これとともに対馬府中」の地名も「厳原」に改められた。1871年明治4年7月廃藩置県により厳原県となり、その後9月伊万里県へ編入された。1872年明治5年)、伊万里県は佐賀県改められ、さらに1876年明治9年4月三潴県合併され8月には長崎県管轄うつされた。最後藩主となった義達は、名を重正と改め華族令施行され1884年明治17年)には伯爵授けられた。 明治維新後も対馬国防交易最前線として重視された。1874年明治7年)には、兵部省海軍水路局によって厳原港測量なされている。1883年明治16年12月門司税関厳原出張所(現厳原税関支署)が開設され翌年2月には「朝鮮貿易港」に指定されている。

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幕末 - 明治初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:54 UTC 版)

天保山」の記事における「幕末 - 明治初期」の解説

1854年安政元年)にロシア帝国軍艦ディアナ号大坂沖に姿を見せ艦長エフィム・プチャーチン威圧的な態度親善通商条約締結交渉要求したため、当時大坂城代土屋寅直近隣各藩命じて警護固めさせる同時に河口を守る砲台天保山建設させた。そのため山土の削り取りが行われ、西洋式城塞となった。しかし一度実戦には使用されず、明治以降廃棄され跡地洋風レンガ造り灯台設置された。砲台建設のために土砂採取され明治時代には7.2mとなった

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