幕末・明治初期
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山内容堂および板垣退助が、これらを修得したことが知られる。 容堂は、谷村自雄(亀之丞)に就いて熱心に居合を修得した。板垣退助が、かつて語ったものによると「土佐の居合は槍術や剣術に附随した居合ではなく、専門の居合術であって、大森流、長谷川流などと称する抜刀の型があった。長谷川流の奥居合というものが十二本あったが、容堂公は、それを能く好んで抜き、七日七夜にわたってこの居合の稽古をした。御相手をした臣下の者の多くはみな疲労で倒れ、この間を通して連続で御相手を全う出来た者は、二人、三人しかなかった」と。特に板垣退助は、大叔父・谷村亀之丞自雄(第15代宗家)より無双直伝英信流居合を習い、若くして後継者の一人と目されて林弥太夫政敬(第14代宗家)の孫娘を、最初の妻に迎えるがのち離縁。(離縁された妻は、林家に戻り、小笠原茂常(大四郎)の五男・茂平と婚し、茂平が入婿となり林姓を継ぐ。戊辰戦争の時の軍監・林茂平(亀吉)がその人である。 第16代・五藤孫兵衛正亮は、高知城下入新町に居住した土佐藩士(馬廻格・上士)で、第15代・谷村亀之丞自雄のもとで居合術を学び、その奥儀を極めたが、明治維新以後、廃刀令の煽りを受け剣道も居合も衰退し、また特に長谷川英信流居合は江戸時代「御留流(おとめりゅう)」として藩外不出で、町中に道場も無く、藩校の一部で伝えられたのみで、これを習った者が元々限られていたのに加えて、廃藩置県後は藩の庇護も解かれ、存続の危機にあった。 長谷川英信流の宗家・谷村家の親族であった板垣退助伯爵は、1893年(明治26年)、帰高の際に、高知市材木町にあった「武学館」に招かれ、長谷川英信流居合術と松嶋流棒術の由来と功績に関する弁舌を行った。さらに板垣は、これらの武術を後世に継承させるためには、適切な師範と道場が必要となることを訴えて適任者を議した。詮議の結果、居合は無双直伝英信流第15代・谷村亀之丞自雄のもとで学んだ、五藤孫兵衛正亮、棒術は新市町の横田七次が最も堪能であるとの意見を得、板垣は「五藤氏のことなら元より良く存じをり候…」と、五藤、横田の両氏に子弟育成の件を直接相談に赴いた。両氏より快諾を得た板垣は、さらに高知の素封家・竹村与右衛門の援助を受けその敷地の一角に道場を建設させ、これらの振興につとめた。五藤正亮は名実ともに居合術の普及に努め子弟を育成。その後、正亮の居合の修養深きを知った高知県立第一中学校(のち「高知県立高知城東中学校」と改称, 現校名・高知県立高知追手前高等学校)校長・渋谷寬は「居合術が身心鍛錬に特効がある」として正亮を学校に招聘し生徒たちに指導させた。1898年(明治31年)歿。享年64歳。 五藤正亮の歿後は、谷村亀之丞自雄の兄の孫にあたる谷村自庸(樵夫)が、これを継いだが、ほどなく1905年(明治38年)、谷村自庸も歿したため、この後を大江正路が継いだ。宗家の継承としては「谷村亀之丞自雄-谷村彜吉自脩-五藤正亮-谷村自庸-大江正路」と成されたが、谷村彜吉自脩はわずか3ヶ月、谷村自庸は7年で歿したため、現在は世代数に数えられていない。
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幕末・明治初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:32 UTC 版)
江戸時代後期の1861年(万延2年)にはロシアの軍艦ポサドニック号が浅茅湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠するロシア軍艦対馬占領事件が起こった。ポサドニック号は芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留して藩主宗義和に土地の貸与を求めた。対馬藩は対応に苦慮したが、5月には幕府外国奉行の小栗忠順が派遣され、7月にイギリス公使オールコックの干渉もあってロシア軍艦が退去した。芋崎には、現在もロシア人の掘った井戸がのこっている。 こののち対馬藩は1862年(文久2年)、長州藩とのあいだに同盟が成立した。1863年(文久3年)には孝明天皇より対馬藩に対して攘夷の勅許と御沙汰書が下っている。 1864年(元治元年)、佐幕派で藩主宗義達の叔父にあたる勝井員周(勝井五八郎)が藩内で主導権を握り、家老大浦教之助をはじめとする勤皇派100余名を粛清するという大事件が起こっている。勤皇派の平田大江は、これに対し、尽義隊を結成して抵抗運動を繰り広げた。藩主義達は翌1865年(慶応元年)、まずは勝井五八郎を、続いて平田大江を殺害して、ようやく事件を終息させた。この一連のできごとを勝井騒動(甲子の変)といい、対馬全体では200名以上が犠牲になった。 義達は、1868年(明治元年)には戊辰戦争に参加し、藩兵を率いて東上して大坂まで軍を進めた。1869年(明治2年)、宗義達は版籍奉還をおこない、新藩制により厳原藩と改称されて、厳原藩知事となった。これとともに「対馬府中」の地名も「厳原」に改められた。1871年(明治4年)7月の廃藩置県により厳原県となり、その後9月に伊万里県へ編入された。1872年(明治5年)、伊万里県は佐賀県に改められ、さらに1876年(明治9年)4月三潴県に合併され、8月には長崎県の管轄にうつされた。最後の藩主となった義達は、名を重正と改め、華族令の施行された1884年(明治17年)には伯爵を授けられた。 明治維新後も対馬は国防や交易の最前線として重視された。1874年(明治7年)には、兵部省海軍部水路局によって厳原港の測量がなされている。1883年(明治16年)12月、門司税関厳原出張所(現厳原税関支署)が開設され、翌年の2月には「朝鮮貿易港」に指定されている。
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幕末 - 明治初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:54 UTC 版)
1854年(安政元年)にロシア帝国の軍艦ディアナ号が大坂沖に姿を見せ、艦長エフィム・プチャーチンは威圧的な態度で親善通商条約の締結交渉を要求したため、当時の大坂城代土屋寅直は近隣の各藩に命じて警護を固めさせると同時に河口を守る砲台を天保山に建設させた。そのため山土の削り取りが行われ、西洋式の城塞となった。しかし一度も実戦には使用されず、明治以降に廃棄され、跡地に洋風レンガ造りの灯台が設置された。砲台建設のために土砂が採取され、明治時代には7.2mとなった。
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