幕府の直裁、収束
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福井藩では騒動の経緯を幕府に報告、以前に両派からの訴え出も受けていた幕府は、この騒動に介入することとなった。幕府は調査を始め、11月18日には本多、竹島らが江戸に出頭する命を受けた。また今村、清水、林は家康に訴えようと独自に駿河に向かった。家康は鷹狩りのため、駿府から出て忍城に逗留しており、3人はそれを追い訴状を提出した。この時には既に本多、竹島両名は忍城に出頭していた。家康は、たまたま秀忠の使いとして忍城に来ていた土井利勝に命じ、両派に対する聞き取りを行わせた。土井は今村の宿を訪問し、そこに本多と竹島を呼び出し、両者を左右に並べて双方の言い分を詳細に聞き出し、夜半までかかってこれを記録し、家康に報告した。報告書をざっと読んだ家康は、この騒動を江戸にて裁定するとした。富正は江戸に移動した際、藩主忠直の生母(清涼院。兄は中川一茂)と面会し、協議している。 11月27日、家康は江戸城西の丸に関係者を集め、将軍秀忠と共に本騒動に対する裁定を行った。幕府の老中・本多正信の尋問に対し、本多富正は 「岡部自休が訴える内容が正しいことは理解していたが、久世但馬は武名の高い大切な家臣であり、農民の訴え程度で処罰することができず、岡部の訴えを下げた。」 また、竹島は 「久世とは縁戚もなく親しくもないが、先君(結城秀康)が『私は国を得て喜んだことが二つある。もうひとつは北陸の要地(越前)に拠ることになったこと。もうひとつは武勇高名な士である久世但馬を家臣としたことである』と言って厚遇していたため、自分も久世を尊敬していた。そのため善悪を考えずに久世に与し、岡部の訴えを拒んでしまった。これは自分が秀康を慕うあまりの行動であり、ゆえに有罪となっても文句はありません。」 と弁明した。 裁定の間、髭を蓄えた大男であり弁舌にも優れた今村は整然とした答弁を行い、一旦は今村方が優位に立った。富正が不利と見た本多正信は本多富正を促し、持参した書面を提出させた。同書面には 交通量の多い、すなわち街道整備などに出費の多い富正の越前府中と今村の丸岡では必要な経費が違うのに、若い藩主を騙して同額の経費手当てを貰っていること。 久世但馬を成敗した際、多賀谷泰経に後ろから鉄砲を撃たせたこと。かつ、今村父子は天守からそれを見物していた。 先代秀康の頃、今村の一族が罪を得て藩を追放されたのに、忠直の代になって自身の権力で帰参させていること。 富正が筆頭家老と定められているにもかかわらず、今村はそれを無視して越権するような言動があること。また富正を讒言していること。 が書かれていた。これに対し今村は、若い忠直に責任があるかのような言い訳をしたため、さらに家康の心証を悪くし、「不忠の曲者なり、早々に追い立てよ。」と、強い怒りを買った。 『徳川実紀』によると、翌28日に判決が言い渡され、今村盛次は陸奥磐城平藩の鳥居家預け、清水孝正は陸奥仙台藩の伊達家預け、林定正は出羽山形藩の最上家預け、岡部自休は能登に配流。慶長18年(1613年)に中川一茂は信濃に配流、落合美作は紀伊に配流、広沢重信も配流、谷伯耆(谷衛好次男)は改易となったが、久世方の本多らには全く処分がなかった。竹島周防は帰国の道中、東海道の駿河国鞠子宿にて自害した。騒動の最中に牢に押し込められたことや、江戸へ罪人扱いで移送されたことなどを恥じて、とされている。 また判決後、富正は家康に呼び出され、厳しく叱責されるとともにその忠義を賞賛され、「若い忠直を今後とも補佐せよ」として改めて「国中仕置」を命じられた。 当時、江戸幕府が開かれてはいたが、大坂城には豊臣家がいまだ健在であり、北ノ庄藩は元は豊臣秀吉の養子であった結城秀康を祖とする藩であり、家中には秀康が集めた武勇を誇る親豊臣的な家臣が数多かった。親藩中でも最大規模であり、系図上は将軍家の兄に相当する家でもあった。幕府としてはこの騒動が、豊臣家を利するような乱に発展してはならないという政治的配慮もあって、一方的な裁定になったものとも考えられる。
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